こんばんは。月岡です。
連日、猛暑ですので、私は外に出るのが嫌になってしまうのですが、こういう日こそプール日和ですね。娘は今日もプールで遊んだようです。以前は、顔を水につけられませんでしたが、最近は頭を全部に水に沈められるようになったと得意げに、少し照れながら話してくれました。娘の日々の成長はうれしいの一言です。その成長を見るとき、私自身の成長はどうだろうか、日々成長しているだろうか、娘に負けていないだろうか、娘を教育できる姿勢・生き方であろうか、と問う良い機会になっています。
この前、山田正弘氏の『新平等社会』という本を読みました。初版が2006年ですから、読まれた方もずいぶんいらっしゃるでしょう。その前に書かれた『希望格差社』が格差問題の火付け役となりましたが、この『新平等社会』は、それらの格差に関する分析と筆者の見解、処方箋を示しています。日本の現状を理解する上で、非常に面白い本だと思います。筆者の処方箋として(これがこの本の肝だと思うのですが)、生産性の低い職種の人に対する支援と、就職期・子育て期の支援、様々なライフコースにおける対応した社会保険制度をあげています。それら処方箋の多くが企業の活動に一定の制限を設けるか、国や自治体が負担するか、という誰かがお金を負担することがほとんどです。しかし、そうしたことが、現在の国家・社会の財政状態の中で、どこまで可能なのか、ということでしょう。これらを着実に実施した場合にかかる費用総額には検討もつきませんが、国家予算総額を上げるか、他の支出を減らすしかありません。これ以上赤字を増やさないとすれば、他の支出を減らすしかなく、そのしわ寄せを許容できるかどうかということです。
極端な考えですが、超有名な経営コンサルタントは生産性の低い職種の人に対して国家が税金を使って、職業訓練したところで、他のアジアのハングリーで勤勉で、安価な労働力にかなうはずも無く無駄である、むしろ世界に打って出る可能性のある有能な若者に国家のお金は使い、彼らがお金を稼ぎ、税金を納めて、それで初めて生産性の低い者を扶養するべきである、というニュアンスの意見が出されていました。こうした考えも、一方で当然考慮すべきでしょう。
この本の中で、面白いと思ったのが以下の箇所です。
『日本の福祉社会では、高齢期の生活リスクへの対応は相当十分になった一方、「子育てしながら生活するリスク」に対しては、ほとんど対応をしてこなかった。エスピーニ=アンデルセンによると、日本は、高齢者への社会的サービス給付を1とした場合、若者への給付比率が、先進国中最低の0.18となっている(1992年の比較。アイルランドは1を超え、北欧諸国は0.8-1.0レベルである)。それゆえ、若者は、男性の収入が高くなるまで結婚を延期するようになり、初婚年齢が上昇し、未婚率が高まる。特に親の収入が高い女性と収入が低い男性に未婚者が集中する。その結果、マクロ的には、少子化が進行し、将来の社会保障制度を揺るがすのである。つまり、現在の「子育て期に生活するリスク」を回避する手段は子供を産まないことである。離婚や夫の失業のリスクを回避する方策は、結婚をしないことである。エスピーニ=アンデルセンは、この事態を少子均衡化と呼んでいる。しかし、子供の数が少なくなれば、、現役の働き手が徐々に減少することにつながり、結果的に、将来の「高齢期に生活するリスク」を高めることになる。これは一時しのぎの対応で、若者にとってはリスクの先送りにすぎない。』としています。もはや男性が働き、女性は専業主婦で、子供がいるという家族主義では、現代の高度にグローバル化し、成熟した日本社会では十分に対応できなくなっています。シングルマザーを含め育児期の女性が働いて生活費をかせぐことが容易である社会を推進しなければ、社会の成長発展・維持が困難になっています。その体制をサポートする社会福祉のあり方の整備が、日本の喫緊の課題の一つでしょう。
こんばんは。月岡です。
本日、近所のお寺で町の盆踊り大会をやっておりました。娘が浴衣に着替えるものですから、私も大学時代の浴衣を久しぶりに着ましたが、帯の結び方を忘れていて、時間がかかりました。娘は、私が歌う東京音頭に気持ちよく踊ったりもするのですが、本番の盆踊りでは、私自身が踊れないせいか、娘も踊らずに踊りの輪を遠くから眺めているだけでした。娘と一緒に踊れたら楽しいでしょうね。これは今後の課題の一つです。
さて先日、諏訪哲二氏の『自己チュー親子』という中公新書を読みました。題名からすると、あまり内容もなく軽薄な本をイメージするのですが、実際はかなり硬派な本です。とても面白い内容の本でした。この「自己チュー」について、前書きで説明しています。
『「私」は本来、独りでは生きられない。ほかの人たちに敬意や同情心を持たず、「私」を超えた普遍や絶対に対する畏れの気持ちを持たず、「私だけの私」「自分だけの自分」で生きようとすると、破壊的な「自己チュー」な人間ができあがる。』として、このような「私」を作り上げてきた時代的、文化的、社会的な背景に触れていきます。その説明には、なかなか説得力があって、首肯せざる得ません。その中で、ニートや引きこもり、秋葉原事件の加藤青年にも触れていきます。その文章の後半に、オンリーワンを尊ぶ教育の危険性についてこう言っています。
『彼ら(引きこもり)の悲劇は、誰もが無限の可能性を秘めている、という絵空事が本気で信じられてしまっていることであり、かつ、その「誰も」と彼らの内的自己とがぴったりと重なってしまっていることである。したがって、就職などの現実生活で「自己」が破綻すればするほど、より強く「自己」の可能性(無限性)が信じられていく構造となっている。まだ「本当の私」に出会っていない、として、さらに「自己」の奥の奥へと入っていくことになる。
(中略)
もちろん、彼らは働きたいのである。しかし、社会やまわりや他人に妥協した働き方はしたくない。そういうことは「私」の真実に対する裏切りだと思っている。彼らに「自己」に合った仕事が見つからないから苦しんでいる。
そして、「自己」に合った仕事などあるはずないのである。そういう当たり前のことを、まず再確認しないといけない。これが最初の一歩である。仕事と「自己」とは同じ水平にはいない、ということである。』
この「自己」に対する絶対的な感覚が、彼らを生きづらくしているのは明らかなのですが、そうしたことを当然とする教育を受けていて、その価値観が漫画やテレビや歌などのまわりの環境にあふれているために、その価値観にどっぷりと浸ってしまい、逃れられないのですね。
子供は皆、身勝手で全能感を持っているものですが、学校やアルバイトなどの社会体験を通じて、こうした感覚が是正されていくのが通常でしょう。しかし、昨今の学校や子供は、個人同士の比較を嫌がりますし、親も子供が傷つくのを嫌がりますから、絶対的な「自己」が残されたまま大人になってしまうことが多いのでしょう。これは、準備の出来ていない子供をいきなり社会という荒波に投げ入れるようなものですから、その拒絶反応が「引きこもり」として強く出てしまうということもあるのだと思います。本当に子供のことを思うならば、人間の可能性が無限だと無責任に言うだけではなく、その限界についても自分自身で触れ感じることのできる機会を設けてあげることも必要なのでしょう。


ビスカストップ
