諏訪哲二 「自己チュー親子」を読んで

2010.08.11

こんばんは。月岡です。

本日、近所のお寺で町の盆踊り大会をやっておりました。娘が浴衣に着替えるものですから、私も大学時代の浴衣を久しぶりに着ましたが、帯の結び方を忘れていて、時間がかかりました。娘は、私が歌う東京音頭に気持ちよく踊ったりもするのですが、本番の盆踊りでは、私自身が踊れないせいか、娘も踊らずに踊りの輪を遠くから眺めているだけでした。娘と一緒に踊れたら楽しいでしょうね。これは今後の課題の一つです。

さて先日、諏訪哲二氏の『自己チュー親子』という中公新書を読みました。題名からすると、あまり内容もなく軽薄な本をイメージするのですが、実際はかなり硬派な本です。とても面白い内容の本でした。この「自己チュー」について、前書きで説明しています。

『「私」は本来、独りでは生きられない。ほかの人たちに敬意や同情心を持たず、「私」を超えた普遍や絶対に対する畏れの気持ちを持たず、「私だけの私」「自分だけの自分」で生きようとすると、破壊的な「自己チュー」な人間ができあがる。』として、このような「私」を作り上げてきた時代的、文化的、社会的な背景に触れていきます。その説明には、なかなか説得力があって、首肯せざる得ません。その中で、ニートや引きこもり、秋葉原事件の加藤青年にも触れていきます。その文章の後半に、オンリーワンを尊ぶ教育の危険性についてこう言っています。

『彼ら(引きこもり)の悲劇は、誰もが無限の可能性を秘めている、という絵空事が本気で信じられてしまっていることであり、かつ、その「誰も」と彼らの内的自己とがぴったりと重なってしまっていることである。したがって、就職などの現実生活で「自己」が破綻すればするほど、より強く「自己」の可能性(無限性)が信じられていく構造となっている。まだ「本当の私」に出会っていない、として、さらに「自己」の奥の奥へと入っていくことになる。
(中略)
もちろん、彼らは働きたいのである。しかし、社会やまわりや他人に妥協した働き方はしたくない。そういうことは「私」の真実に対する裏切りだと思っている。彼らに「自己」に合った仕事が見つからないから苦しんでいる。
 そして、「自己」に合った仕事などあるはずないのである。そういう当たり前のことを、まず再確認しないといけない。これが最初の一歩である。仕事と「自己」とは同じ水平にはいない、ということである。』

この「自己」に対する絶対的な感覚が、彼らを生きづらくしているのは明らかなのですが、そうしたことを当然とする教育を受けていて、その価値観が漫画やテレビや歌などのまわりの環境にあふれているために、その価値観にどっぷりと浸ってしまい、逃れられないのですね。
子供は皆、身勝手で全能感を持っているものですが、学校やアルバイトなどの社会体験を通じて、こうした感覚が是正されていくのが通常でしょう。しかし、昨今の学校や子供は、個人同士の比較を嫌がりますし、親も子供が傷つくのを嫌がりますから、絶対的な「自己」が残されたまま大人になってしまうことが多いのでしょう。これは、準備の出来ていない子供をいきなり社会という荒波に投げ入れるようなものですから、その拒絶反応が「引きこもり」として強く出てしまうということもあるのだと思います。本当に子供のことを思うならば、人間の可能性が無限だと無責任に言うだけではなく、その限界についても自分自身で触れ感じることのできる機会を設けてあげることも必要なのでしょう。


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