分かり合えぬ生き物
今日は月に一度のバリカンデー、自分で頭を丸めました。
以前は床屋に行っていたのですが
・自分でも出来そうな頭にお金を払うのがもったいない。
・思ったような短さに切ってもらえないことが多すぎる。
ということで、自分でやるようになりました。
もう1年、最近では慣れたものです。
昨日の記事で私は「歴史とは表現だ」と断言しました。
実はこの言葉には一応の根拠があります。
大学時代に少しだけ勉強した情報工学で、唯一しっかりと覚えていることです。
「自分が発した情報が相手に正確に伝わる確立は何%か?」という問いです。
正解は0%、つまり自分の言葉は相手には絶対に正確に伝わらないのです。
理由を説明します。
人間は何かの情報に接したとき、必ず自分の中にある知識や経験を参考にして
意味づける作業を行います。
私があなたに「おはようございます」と言ったら、おそらくあなたの中では
「おはようございます→あいさつの一種・朝にするもの」といった解釈をされるでしょう。
問題は「あいさつとはどのようなものか」や「朝とはいつなのか」という事項が、
個々人において絶対に一致しないことなのです。
つまり、私が発する私の言葉は、あなた独自の解釈により全く別の意味づけがされ、
あなたの言葉に変換されてしまうのです。
そしてあなたが発する言葉も、また同じく他の人に全く別の意味づけをされます。
「言いたいことが伝わらない」のは当り前なのです。
床屋で切ってもらった自分の髪型に満足できないのも仕方なしと言えましょう。
「詭弁だ、ある程度の一般的な常識というものはあるし、絶対的な真理もあるはずだ」と
いう意見があるかもしれません。
しかし、「常識」とは簡単に移ろいます。
電話とは自宅で受けるものが当り前だった時代を思い出せますか?
「人を殺すことは悪い」ですが、では以前の奴隷制度はどのように解釈しますか?
奴隷制度の下では「奴隷=物」でした、人が生物として扱われなかったのです。
「殺す」ことが絶対的に悪いのなら、なぜ国連レベルで(安保理の承認等を受けること)
戦争の権利が認められているのでしょうか?
そして「絶対的な真理」とは、所謂「神」や「イデア」と呼ばれるような存在です。
それは宗教や哲学の分野であり、私はその世界についてここで語るつもりはありません。
だからこそ歴史は表現でしかありえないのです。
どんな情報も発した時点で表現が含まれ、受け取った時点で別の形に変わります。
それを何度も繰り返したら、どれほどの変化が起こっていることでしょう?
歴史とは、壮大な伝言ゲームでしかないのです。
それ故に私は自分の言葉をここに記しています。
自分の言葉は決して相手に伝わらない、しかし類推はしてもらえるかもしれない。
私がどのような考えを持っているか、それを常に発信し続ければ、いずれ相手の中に
私の世界観を少しでも浸透させることが出来るかもしれない。
「情報と情報の隙間を埋める」
「発信することで得られる経験を大切にしたい」
そしてもう一つの語る理由
「発信することで自分という存在を相手に浸透させたい」


ビスカストップ
