何を土台とするか
おはようございます。
今日から仕事始めの人が多いのでしょうか。
昨日からの続き、合理性のみに目がいくことの怖さについて。
我々が西洋から輸入している多くの科学的手法は、合理主義を論拠として
いるわけですが、西洋においてはその合理性の後ろに「神様」という絶対的な
存在があるからこそ合理主義を用いても問題が生じにくいのです。
「神様に間違いはない」という土台があることが、合理主義には必要です。
さて、ここで我々日本人について考えてみると、少し条件が変わります。
多くの日本人は所謂無神論者に近いわけですから、「絶対的な存在」を
持たないわけです。
その状態で西洋の合理主義を導入した場合、どうなってしまうのでしょうか?
合理主義のもとでは、どうしても人間が「何を土台とするか」についての
自信が薄れていくことになります。
要するに、生きるべき土台を持たないまま合理化の道を進めてしまうと
「人として生きる道」を見失ってしまう可能性があるのではないかと。
随分前に「無宗教の人間は海外では信用してもらえない」という話を
書きましたが、これは「信じる土台がない者は信用できない」という
欧米等における常識のようです。
その常識を理解しないまま欧米流の合理主義的なやり方をありがたがることに、
私は大きな疑問を感じているのです。
我々はもう少し日本人に合った方法論を考える必要があるのではないか、
という気がしています。
この項続く。
いつもお読み頂きありがとうございます。


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