夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その5
2010.07.30

上司はなんと銀行マン


やる気十分で新会社に赴任したところ、
上司はなんと銀行から出向してきた方でした。

しかも、海外赴任の経験もある英語ペラペラ。
企画部の同僚も皆英語ペラペラ・・・。
「ずいぶん場違いなところに配属された」
本当にそう思いました。

これはものすごいカルチャーショックでしたね。
それまでほとんど国内の証券営業の仕事でしたから。

銀行のビジネスと証券のビジネスというのは
まったく異質なものなのですね。
これは本当に勉強になりました。

ところで営業というのはキライではなかったのですが、
やはり数字を背負いますよね。
そのプレッシャーがたまらなかった。
でも営業の出来る人にとっては、それは楽しいのでしょうね。

ただ、本音のお話として、一方で営業を外れたことで、
また自分自身も力をつけたいとも思っていました。

野村證券とは営業主体の会社です。
営業ができて、営業課長になって支店長になって・・・。
いわゆる出世コースは、当時は営業畑からでした。

営業という職種から外れるということは、その出世レースから
外れるということを当時は意味していました。

ただ、まだこの頃は辞めようという「脱サラ指数」は
上昇しなかったのです。
この仕事は面白い、自分に合っているのではないか。
本当にそう思っていましたから。

「なんでも吸収してやろう!」
そう思ってここでも人一倍働いたと思います。
早朝7時には出勤して、夜10時、11時は当たり前でした。

働くとは別に「社内活動」も楽しんでしていました。
社内には銀行、不動産、リースいろいろな人種、職種の方々が
いるのです。
仕事帰り、いろいろな方を誘って、酒を片手に議論することも
本当に楽しかった。

このように、「脱サラ指数」は一向に上昇しないまま、
いよいよ空前絶後の「バブル景気」に突入です・・・。



夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その4
2010.07.29

サラリーマンにとって出向ということ


その野村證券の「戦略子会社」は、実は野村グループ4社の
合弁企業でした。
その会社に出向という形で行ったわけですね。
今日はその「出向」について触れてみましょうか。

最近大企業では出向という転勤がよくあるようですね。
どんなとらえ方すると思いますか?
これは出向になったものでないと分からないでしょうね。

後ろ向きに考えると、
「ウチの会社にはいらないから他の会社に行ってくれ!」
ということになるでしょうか。
よく50歳台くらいで、関連の会社や得意先に「出向」という
形で異動する方を見かけます。
非常に言い方悪いですが、「天下り」や「片道キップ」みたいな。

「他の会社で、もう少し別の経験をして欲しい!」
これは前向きなお話なのですね。
若手の社員の出向に多いのでしょうか。

ではまだ28歳の当時の私はどう思ったか。
やはり正直ショックでしたね。
「転勤ではないのか・・・」
でも結果的に出向して良かったと今では本当に思っております。

ではその良かった理由を。
いろいろな業種の方とお付き合いができたということですね。
その会社は、銀行、ベンチャーキャピタル、不動産会社など
まさにいろいろな人種がいました。

今でこそ税理士としていろいろな会社とお付き合い
させていただいております。
そういう経験を持ててよかったと思っております。

当時「野村マン」という言い方がありました。
「野村證券で生まれ育った企業人」のことでしょうか。
それが「金太郎アメ」といわれ批判されたことも
あったようですが・・・。

同じような言葉で、電通には「電通マン」東芝には「東芝マン」と
どこの会社にでも、その企業風土に根付いた人種が
必ず生息しているのですね。

もし定年まで勤めたら、本当に「野村マン」だけで終わったでしょう。
でも出向のおかげで違う見方ができたのですね。
「世の中は違うぞ」と。
結果的にそれが脱サラにつながったと思っています。

本当に出向したら上司が銀行マンだった・・。
おかげさまで、いろいろな見方を教わりました。
それはそれでよかったと今では思っております・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その3
2010.07.28

平成元年という時代


いきなり20年も前のお話をしても分からないですかね。
当時の金融業界を少し解説してみましょう。

平成元年当時、野村證券は「ガリバー」と呼ばれていました。
証券界では国内には敵がいないと本当に思っていました。
その野村證券が、平成元年4月に戦略的子会社を作りました。
ファイナンス会社で、残念ながら、「銀行」
ではないのですね。
つまり、当時、証券業界に敵がいないと悟った野村證券は、
今度は銀行業務に参入しようとしたのですね。
でも当時は、大蔵省(今の財務省)の力が強烈に強くて、
そう勝手に銀行業務には参入できなかった。
銀行業界からも猛反発を受けていたのでしょうか。

でも当時こんな言葉も言われていました。
「金融ビックバン」
つまり、金融業界にある規制を急激に緩和して、
日本の金融市場をより活性化しようという動きもあり、
そのため国際的にも競争力をつける必要もあったのですね。

それで、銀行ではないファイナンス会社を作ったのですね。
これを「ノンバンク」といっていました。


また時代背景も詳しく説明しておきましょう。
昭和から平成に移ったまさに平成元年、どういう年だったか
ご存知ですか。
平成元年(1989年)12月に
日経平均が最高高値38,915円をつけた年です。
まさにバブル景気突入の瞬間でした。
その株式市場にもつられて、土地の値段も上昇しましたからね。
そのピークは2年後の平成3年(1991年)といわれています。

ですから、平成4年に退職した私は、バブルのピークを見極めてから
脱サラしたといえますね。
今更ながら、もうすごい「相場観」だったと思っています・・・。
なんと見事な脱サラのタイミングだったのでしょう。

サラリーマン時代の最後の3年間はまさに「バブルのような」、
「夢のような」3年間でした。
楽しくもあり、また強烈に仕事もし、かつ勉強になった3年間でした。

バブル時代にそのノンバンクといわれる業種が
何をしてどんな役割だったのか。
まさに私は時代の「生き証人」なのですね。
それこそ、今だから言えるお話を、「守秘義務の範囲内で」
ご披露してみましょう・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その2
2010.07.27

4度目の転勤


また昔話を始めます・・・。
時計の針を平成元年まで戻します。

その平成元年5月に、私は野村證券での4度目の転勤をしました。
東京本社への転勤です。
でも5年間でもう早くも4度目の異動です。
転勤に慣れっこにはなっていたものの、
やはり転勤とはイヤなものです。
でもこのとき私の「脱サラ指数」の針は少し動いただけでした。
それはなぜか?

実に面白い仕事につくことができたのです。
当時野村證券が設立したばかりの戦略的子会社に
出向し企画部に配属されたのです。

サラリーマン経験者ならこれは誰でも思うのですね。
転勤のある度に
「会社はいったい自分の適性を見てくれているのか?」
と。
「オレのやりたい仕事は違うんだ!」
上場企業にお勤めなら一度は必ず思うのでしょうね。
でも多くの上司は
「イヤイヤ。いろいろ君の適性をいろいろな人から見てもらった上で、
将来的には君に合うしかるべきポジションに・・・」
というような、もっともらしい理由を言われるのですね。

でも自分自身はどうだったのか。
この頃はもう入社して6年目に入ったときです。
30歳を前にして自分の置かれているポジションや
将来の位置づけが何となくでも分かってくるころです。
前にもアップしたように、証券会社に勤めながら
どうも株式の営業が好きになれない。
「上がるか下がるかわからない」自分が納得できない商品なんて
正直売りたくはないのですね。

それ対して一度だけやった企画の仕事は、確かに面白いと思った。
「やはり会社は自分の適性見ていてくれたのだ・・・」
何となくそう思ったのですね。
このときもやる気マンマンで新会社に乗り込みました。

このとき「脱サラ指数」0パーセントで
「税理士になりたい指数」も0パーセントでした。
ではなぜ3年後税理士を目指して野村證券を辞めたか
正直に振返ってみましょう・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その1
2010.07.26

私の脱サラ日記を始める理由


また人気シリーズ?を復活させましょうか。
先月に当事務所で人の採用のお手伝いをしたということは、
アップしたとおりなのですが、本当にいろいろな方にお会いしました。

実は、不景気のせいでしょうか、当事務所へ直接応募も多かったのです。
ここだけのお話、税理士や会計士の資格をお持ちの方からもありましたし、
もっと驚いたのは、
現在某證券会社にお勤めの東大卒の方から応募の打診もありました。
正直ビックリしましたね。
お話をお聞きすると、「ぜひ吉田事務所で働きたい。」ということなのですね。
大変ありがたかったのですが、実はすべて丁重にお断りしました。

何故かというと、実際にお話をよくお聞きすると、
「脱サラして将来税理士として独立したいのですが、
実際に独立して活躍している吉田のお話が聞きたい。」

実はそういうことだったのですね。
いつかは辞めたい方を採用することはやはりできないのです。

でも、一方でそのお気持ちもよく分かるのですね。
今は某証券会社やある監査法人や税理士法人にお勤めしながら
やはり将来的には脱サラして税理士として独立したい。
そんな考えを持たれている方が多いのでしょう。

さらにショッキングなお話として、昨日の日経新聞に、
監査法人最大手の新日本監査法人の大量リストラのニュースが
出ていましたね。
この業界も、それだけ厳しい状況なのでしょうか。
「し方がないので税理士でもなるか」
なんて安易な会計士が増えても困りますね。

まあそんなことはいいとして、やはり「脱サラ」のお話は
皆さん本当にご興味あるみたいです。

ところで、結構気合を入れて書いていた、ブログ「夢をかなえるゼイ」でも
まだ脱サラしていなかったですね。

「どうして吉田さんは野村證券を辞めたのですか?」
「なぜ税理士を目指したのですか?」
という問いにまだお答えしていないことに気がつきました。

私は野村證券を平成4年5月に退職しました。
もう18年も前になるのですね。
その頃のお話なので、もう時効成立しているので、
何を書いても大丈夫ですかね!?


これから脱サラしようと考えている人、
もう会社を辞めたくなっている人、
日曜日のサザエさんの歌を聞くと憂鬱になる人
のために、自称「脱サラ評論家」がまたお得意の「昔話」をしてみましょう・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その13
2009.11.20

横浜というところは坂が多い街です。
でもその坂を上りきった見晴らしの良い高台には、必ず屋敷街があって
会社経営者など資産家が多く住んでいました。

その大金持ちを目指して、休みの日に株式の資料をたくさんカバンに入れて
その坂道を登って外交しました。
横浜港に有名な「中華街」がありますね。その裏手の山を登っていくと
「港の見える丘公園」があって「外人墓地」もあります。
だれでも知っている有名なデートコースですね。
実はその先にこれが「格差社会か」と本当に実感できるような
超高級なお屋敷が、当時並んで建っていました。

楽しげなカップルを横目に、背広を着たセールスマンが大汗を拭きながら
重いカバンを持って回っていました。
「こんにちは。野村證券の吉田です。」
休みの日に来られても、ほとんどが相手にしないか、居留守を使われます。
でもそんなことは最初から覚悟の上で、資料をポストに入れ、
翌週また電話するのです。
「資料読んでいただきましたか?」と・・。
その繰り返しの中で新規顧客開拓を目指しました。
そう簡単には成果がでませんでしたが、毎週末「丘営業」を繰り返しました。
その頃は、もう観念して、株式の営業は「夢を売る営業」なのだと
思うようにしていました。

そんな古典的な営業を数ヶ月した頃でしょうか、
ある大邸宅で「若いのに熱心だね」と老経営者が
扉を開け私を家に招いてくれました。
その時は自分が公務員を脱サラして会社を起こしたことと
苦労して大きな企業グループにしたことを話してくれました。
今思えば自分が脱サラして努力していた頃を思い出しても
いたのでしょうか。

それから数週間何度か訪れたあと、鉄鋼株の株価が急に上昇してきました。
意を決し、老経営者に電話しました。

「社長!東京ウォーターフロントの夢を買いませんか!
50万株買ってください!!」
一世一代のセールス・トークだったかもしれません。

「分かった。いくら必要?」
思いがけずそう言われて、電卓を叩く手が震えていました。
支店中が急に静まり返って、私の電話を聞いているようです。
「×億×××万円です。あ、ありがとうございます。」

電話を切った瞬間、支店中がスタンディング・オベーションです。
金太郎支店長が飛んできて、いきなり握手を求められました・・・。


20年経っても忘れられない、私の短いセールスマン人生で
絶頂の瞬間でした・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その12
2009.11.19

営業の何がキツカッタかというと、株式の営業です。
やはり何度も悩んだように、株そのものが好きになれない・・・。
そういう営業マンが株を勧めてもやはりダメなのですね。
これはどうしようもないことでした。
でも金太郎支店長から毎日のようにゲキです。

当時野村證券では株式を「大量推進販売」という手法で売っていました。
これも証券不祥事のあと、これも問題視もされ、
今では無くなってしまった販売手法です。
ガリバーといわれるほどの大証券会社が
特定の銘柄を勧めるのですから、かなりの確率で大幅に上がります。
でも「野村證券が勧めるから株が上がる・・・」
どこか変に思ってはいました。
せっかく本社のトレーダーにまでなって株を勉強したのに
そんな幼稚な理由で株を勧められないのですね。
納得できないものを売るのは正直つらいのです。

当時野村證券が取り上げていた株式は鉄鋼株でした。
「東京ウォーターフロント銘柄」といって、
「東京湾岸に工場を持っている鉄鋼会社は土地の含みがあるので
今後莫大な価値が出てくる・・・」
確かそんなシナリオだったと思います。
ですので別名「シナリオ営業」とも呼ばれていました。
社命で株を勧めるのですから、これは自ら洗脳しなければならない。
東京の有明や千葉の幕張など3回ほど見学にいったでしょうか。

「これは鉄鋼株は大幅に上昇する・・・」
そう自ら洗脳しようと努力しました。
会社に生き残るには、当然営業成績をあげなければなりません。

今思えば洗脳しようとしたものの、どこか冷めている自分がいました。
結局休みの日もその鉄鋼株の資料をたくさんカバンに入れて
横浜中を営業していました・・・。
本社では自分の特性を見つけ喜んで働いていたのに、
正直働かされている感じがしていました。
本当にイヤイヤやっていたのかもしれません。

だからこそキツカッタのでしょう。
結局サラリーマン生活は8年ほどしかしませんでしたが
この横浜での営業マン時代が一番つらく苦しいときでした・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その11
2009.11.18

横浜に赴任した時、支店長の顔を見るなりすぐ感じました。
「金太郎だ・・・」
やはり、丸顔で小太りで、眼鏡をかけていて
それで七三に髪の毛を分け、ギロッとした目、
そして声がやたらでかい・・・。

その「金太郎支店長」は私にこういいました。
「本社で少しなまっているだろうから、現場で頑張ってください」
厳しいゲキで迎えてくれました。

その金太郎も、まだ30代の若手バリバリ。
営業課長から支店長になったばかりで、もうやる気マンマンでした。
当時は30台でも、多くのトップ・セールスマンが支店長になっていました。
ちょうど、ある支店で、入社10年目の支店長が抜擢されて、
「異例の人事」としてマスコミで話題にもなっていたときでした。
会社全体として「キープ・ヤング」という言葉があって、
とにかく「若手の抜擢を」という社内風土もありました。

ただ、その「キープ・ヤング」ということは、
その後の証券不祥事のあと問題視もされ、
やがて言われなくなってしまいましたが・・・。


金太郎支店長は私の顔を見るなり、
「支店の窓口の店頭係をやってもらおうと思っていたけど
キミは営業マンの顔だね。さっそく営業課に担当換えしよう。」

といって3年も年次が上の先輩をいきなり
私と交代させてしまいました。
「そんな・・・」

一方で入社5年目というのは、もう会社では一人前の扱いなのです。
野村證券では当時、(多分今でもあると思いますが、)
インストラクター制度というのがあって、入社数年経つと
新入社員の教育担当としてメンドウを見ることになっていました。

当然、入社5年目の「中堅」営業マンとして成績もあげなければなりません。
担当先が2000件くらいあって、支店の収益も稼がなければならないし
しかも新人君2名のメンドウもみる・・・。

まさにキツカッタのです・・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その10
2009.11.17

ここで野村證券の昔話を長々アップする前に、
少しお断りを申し上げておきましょう。
特定の企業の暴露話や批判などするつもりもありません。
以前アップしましたが、私は野村證券に高校生の頃から
入社したかったのです。これは本当なのです。
だからこそ大学では証券論も専攻した・・。
野村證券に世話になったと思っているし、今でも「愛して」おります!?
こんな人は、今の社員の中でも少ないでしょう。

それなのに
「なぜ私は野村證券を辞めたか」
「なぜ税理士を目指したか」
を説明したいからこそアップしているのです。
どうぞその点ご理解ください。

でも書きながら、昭和の時代の「野村證券の経営術」も、
ある意味で参考になるかなと思ってきました。
今思えば、「昭和の時代の成果主義」ではないかと・・・・。


「金太郎アメ経営」と「ダイヤモンド経営」

こんな言葉を今時、経営コンサルタントの方も言わないでしょうね。
実は、ご存知かもしれませんが、野村證券はその後、バブルを経て、
損失補てんや総会屋事件など、スキャンダラスな証券不祥事を
次々に引き起こし、結果的に大きく変わりました。
よくマスコミは、「金太郎アメの功罪」として書き立てていました。
そこで、この「ダイヤモンド経営」という言葉を引き合いにして
「ダイヤモンドがいつの間にか、つるつるの球体になってしまった」
「金太郎アメが証券業界を変えてしまった」
などと言われ続けました・・・。

でもかつていた社員として、正直に申し上げます。
あの当時「金太郎アメ」が全てでした。
ご紹介したとおり、社員が皆「セブン・イレブン」で働いたのです。
新入社員は全員独身寮に入れられ、激務のあとも毎日のように
深夜でも先輩たちと酒も飲みました。
おまけに休みの日にも同僚とゴルフです。
野村證券こそが生活そのものでした。
四六時中一緒の生活です。
その中で考え方まで「洗脳された」というといい過ぎでしょうか・・・。

だから、入社して5年も経つと、誰でも酒のせいで「小太りになり、」
市況を画面で毎日見るから、「眼鏡をかけ、」セールスのせいで
「大声を出すように、」なって、結局は皆同じような顔になってしまうのです。

さらにいうと、社員は誰でも
「酒は強いし、カラオケがうまくて、ゴルフが得意・・・」
そういう、「金太郎アメ」に自然とならざるを得なかったのです・・・。



夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その9
2009.11.16

横浜での支店営業のお話の前に、その当時の野村證券のことを
少しだけご説明しておきましょう。

私が入社する前の大昔のことですが、野村證券の中興の祖と
言われた奥村綱雄という有名な社長さんがいました。
その奥村元社長が標榜した
「ダイヤモンド経営」
という有名な言葉があります。
これは、多面体にカットされたダイヤのように、
多様な人材がそれぞれ個性を発揮して光り輝く経営を
目指したことでそういわれます。
確かに、私が入社した頃は個性的な経営陣が
多かったと感じています。
本当に私が就職が決まった時の役員面接は
役員からオーラを感じました・・・。

でも、その「ダイヤモンド経営」に相対する言葉として
これも野村證券を象徴する有名な言葉として
「金太郎アメ」
ということがいつ間にか言われるようになりました。
どこを切っても同じような顔が出てくる金太郎アメだと・・・。

これから、私のお話はバブル時代に突入しますが、
当時はすでに業界内で「ガリバー」と呼ばれるほどの
大証券会社でした。
国内では本当に敵がいない。そう社内でも皆思っていました。
今から思えば、個性的な多様な人材がいるより、
経営者の言うことを素直に聞く、金太郎アメの人材の方が
巨大戦艦の舵取りが楽だったのかもしれません。


事実こんな経験がありました。
結婚してすぐの頃、支店対抗野球大会がありました。
それに奥さんを連れて行ったとき、ビックリして
私にこういいました。

「支店長の顔がほとんど同じ・・・。」
そうなのです。
確かに当時の支店長は、丸顔で小太りで、眼鏡をかけていて
ギロッとした目、それで七三に髪の毛をピチッと分け、
そして声がやたらでかい・・・。

そんな判で押したような支店長が多かったと思います。
これがまさに後日、世論で指摘された、「金太郎アメ」だったのでしょう。

赴任した支店にも、その「金太郎アメ」が私を待っていました・・・。



夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その8
2009.11.13

相場が良くなると本社スタッフを増やし、相場が悪くなると
営業をテコ入れするために支店の営業マンを増やす。
戦後証券会社はそれを繰り返してきたのかもしれません。
暴落のあとで、私は本社から支店の営業に戻ることになりました。

ただ、私にとって、せっかくの本社勤務が一年で終わることに
ショックを受けました。
ようやく、自分の適性にあう、安住の地を見つけたのに・・・・。
コンピュータを駆使して資料作りをするという
最先端の仕事に喜びを見つけていました。

次の赴任地は横浜のある支店です。
「また営業か・・・・」
そう正直思いました。

商売は営業が基本です。
どんな会社でもそうでしょう。
証券会社でも当然営業は基本中の基本です。
当時は営業で頭角を現したものが出世をするのが決まりでした。
よって、営業課長、支店長という出世コースを登らなければ
会社にいる存在価値がないようにも思われていました。

私も入社して5年目。それなりに会社におけるポジションが
分かりつつある時でした。
でも正直言って、5年で4回の異動は多すぎました。

「自分の適性を会社は見てくれているだろうか・・・」
そういう不信感はその後ずっと残りました。
証券会社特有の相場に左右されるという宿命と
それに振り回されている自分を感じました。

このときは、「脱サラ指数」は急激に上がりましたが
ただここで辞めようとはまったく思いませんでした。

それを踏みとどまらせたのが何かは、もうお分かりですね。
前にご紹介した
「子はかすがい理論」
です。
物心つきだした娘は、まさにかわいい盛りの2歳くらいでした。

「この子や家族のためにも辞められない」
そう思いました・・・。

「またここで頑張ろう!そしていつか支店長になろう!!」
そう意気込んで支店に赴任しましたが、
やはりトンでもないことが私に待っていました・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その7
2009.11.12

昨日つい筆を滑らせてしまいましたが、
「朝の7時から夜中の1時までのセブン・ワンで働きました。」
何て書くとマズイですかね。

税理士という商売をしていると、労働法など勉強することもあります。
でも20年前のあの頃は、不思議とそんなことはどうでもよかった。
「滅私奉公型の労働」というのですか。
日本の高度成長を支えたのは勤勉なサラリーマンだった訳です・・・。
確かに基本給より残業代の方がはるかに多かったかもしれません。
(これも内緒かな・・・)
ただ残業代が欲しくて遅くまで働いた訳でも、
また強制的に働かされた訳でもなかったのです。

朝から晩まで机に向かって、資料作りしたり、文章を書いたり、
コンピュータに向かうことはまったく苦にはならなかったのです。
「これが自分の得意分野だ・・・」

自分の会社の中で生き残る場所を見つけたようで
喜んで働いていました。


実はあとから知った話ですが、このとき会社は私に対して
「吉田は背も高いし声がでかいので、場立ちを経験させて
もっと株を勉強させた方がいい」
そんな声があったそうです。
「場立ち」とは、取引所内で身振り手振りをして売り買いを成立させる、
あの職業です。
手のひらを向こうに向けると「売り」でこっちに向けると「買い」
有名なのは、三本指を立てて頭を越すポーズをとると「三越」です・・・。

今では証券取引所がすべてコンピュータ化されてしまったので
もう無くなってしまった職種です。
やはり証券会社にも、当時も「株屋的な」体質が根強く残っていて
株を理解するには現場が一番のような雰囲気が実際にありました。

場立ちの職業は朝5時すぎに会社に来て、情報収集打ち合わせ、
そして午後3時の取引所終了とともに仕事は終わります。
まるで毎日、早朝勤務の「港湾労働者」みたいなものです。(失礼!)
本質的に株がキライな私は、正直そんな仕事は絶対にやりたくなかった。

しかも何より、このアナログの前近代的な職業は
いつかなくなるような気が本当にしていました。
これからはコンピュータの時代だ。そんな予感もあったので
嬉々としてコンピュータによる資料作りに精を出していました。

でも会社勤めとは思うようにならないものです。
やっと見つけた安住の地から、早くも半年ほどで
また異動をすることになります。
まあサラリーマンとはこんなものですね・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その6
2009.11.11

「脱サラして良かったですか?悪かったですか?」
よくその結果だけをいきなり聞かれることがあります。
本当に良かったかどうかは、その人の考え、生き方によって違いますね。
それこそ、その方が死ぬまで分からないのではないでしょうか・・・。
もう少し脱サラ編を続けます。

入社4年目の1987年10月、ブラック・マンデーの大暴落を
私は経験しました。

「それで株がキライになって証券会社を辞めたのですか?」
そう思われる方も多かったのでしょう。
確かに株の怖さを知ったのは事実ですが、でも、ここでもしそれだけの
理由で辞めていたら野村證券に入った意味がなかったのでしょう。

せっかくサラリーマンになったからには、いろいろ経験してから
脱サラするべきだと、これは「脱サラ評論家」としての持論です。
本当に「仕事の経験」と「人脈作り」が大事だと感じます。

また今となっては思いますが、あの時は大暴落で大変でしたが
大暴落が私の人生の転機となったのもまた事実です。
そういう意味で大暴落があって良かったのかも知れません。

なぜなら、その後すぐ、会社として当然かもしれませんが、
証券会社の本社にも大幅な機構改革がありました。
せっかく「花形ディーラー」になる可能性があったのに
その道が立たれた訳ですが、次に配属された部署で、
自分の特性を知ることができたのです。

実は、そのあとは、本社の中の企画のような部署に
回されました。
暴落後の反騰相場と結びつくような資料作りが
主な仕事でした。

昭和の時代ですから、まだ今のようなパソコンなどありません。
それでも会社の片隅には高価なコンピュータがあり、
そのコンピュータで東京証券取引所と連動したデータを
引っ張りだして、来る日も来る日も資料を作り続けました。

「こんな暴落はありえない。必ず反騰相場が来る!」

要するにそんな資料でした。
そんな資料を朝の7時から毎日終電の1時くらいまで作り
続けました
あの当時、よく証券会社は「セブン・イレブンで働く」といわれましたが
セブンイレブンどころか、「セブン・ワン」でした。

あの頃は若かったし体力もありました。
でも何より、「こういう仕事も面白い!」
自分で自分の適性を発見した喜びのほうが大きかったかもしれません。

まだエクセルもない時代です。確か「ロータス 123」(これも古い!)という
ソフトをあれこれ悩みながら操作していたのも思い出します・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その5
2009.10.30

時はまさにバブル前夜。
東京本社のディーリング・ルームは活況を呈していました。
やはり世界を相手にしている東京です。

地方の営業店に比べたら、本社のスタッフが皆優秀に見えました。
なぜか国立大出の頭の良さそうな人たちが偉そうにしていました・・・。
私立大卒体育会系の私としても多少気後れしたものの、
何より結果が問われ、それこそつまらない学閥などありえない会社
だったので、ここでも必死にトレーダーの仕事に取り組みました。

トレーダーというのは、注文を仲介するのが仕事ですが、
株価というのは、当然日々上がり下がりしますね。
しかも相場観というのは人によって違います。
その銘柄の株価を高いと思う人もいれば、安いと思う人もいる。
その情報を仕入れ、予測しそれを仲介するのが
トレーダーの仕事なのですね。
高いと思う人には売ってもらって、それを安いと思う人に
仲介する。その両者の橋渡しをするとともに会社としての利益も
確保する。
それがうまくいくと「トレーダー冥利」を味わうことができるのです。

あれほどキライだった株も、何となく仲良くしてくれている
ように感じていました。
相場の世界はこんなものか・・・。
仕事がまた面白く思えるときでした。

でも仕事というのは難しいものです。
ここで相場の本当の怖さを知る時がやってきました・・・。
これも古いお話で恐縮ですが、1987年10月19日に起った
有名な事件です・・・。

あの「ブラック・マンデー」と呼ばれた大暴落の日です。
日経平均が一日で3,800円、なんと15%も大暴落しました。
本社の大ディーリング・ルームには、壁面に株価を表示するボードが
あり、上昇すると赤色に、下落すると緑色に変わるのですが、
全面緑色、まさに「オール・グリーン」です。
あのとき携帯カメラがあれば、必ず写真でも撮っていたでしょうけど、
記念を残せなかったのは実に残念です。
でも今思えば、実に貴重な経験でした。

「これが相場の世界か・・・」
全面緑色の株価ボードに立ち尽くしたあの日・・・。
もう20年以上も前のお話なのですが、
あの緑色が今でも脳裏に焼きついてます・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その4
2009.10.29

大阪の街がいくら好きになったからといって
やはり仕事が面白くなければサラリーマンとしての生きがいは
得られないですね。

株のキライな証券マンとして、ここは心を入れ替え、
株式の勉強を必死になってやりました。
本社部門のトレーダーなのですから、当然株に詳しくなければ
勤まりませんからね。

ではここで「株式の極意」を伝授しましょうか。
普通の税理士のブログなんかで、こんなお話は聞けません!?

当時からその相場観に一目おかれていた有名人で
その後大手の投資顧問の社長さんを渡り歩いた
真の「相場のプロ」から社内の研修で、聞いたお話です。
ただ20年も前のお話なので現在当てはまるかどうか・・・。
その研修で

「株を理解するには四季報をすべて暗記しなさい!」

そう言われました。
四季報というのは上場企業の業務内容から業績予想まで
網羅的に書かれている本です。
当時の上場企業数が2000社くらいだったでしょうか。
実際は四季報を全部暗記できる人はなかなかいないでしょうから、
それをよく読めということなのでしょう。

私も全部暗記はもちろんできなかったですが、
かなり上場企業の中味の勉強しました。
それとトレーダーとは企業名を社内的に、すべて証券コードで呼び合うので
その番号まで全部暗記しました。
今はもうすっかり忘れてしまいましたが・・・。

また、株価のチャートも勉強しました。
株の上がり下がりを書いたグラフをチャートというのですが
そのチャート分析することで、株価の予想もある程度できるのですね。
それと株式の売買の出来高との相関関係もあるのです。
これを公開すると守秘義務違反?かもしれないので
これくらいにしておきましょう。

それくらいに勉強しましたが、どうも株はやはり分からない。
ただ相場を扱う職業もそれなりに面白いなと思うようになりました。

株価の上昇局面では、社内はお祭り騒ぎのように活気が出るのです。
トレーダールームは大声で怒鳴りあっているようで、
本当にワクワクするような仕事としての喜びを感じました。

しかし、ようやく仕事に喜びを覚えるようになったものの、
会社というのは自分の意志とは違った行動に出るものです。

数ヶ月たって、急に東京本社行きを命じられました。

「大阪という街が気に入っていたのに・・・」
「何と人使いの荒い会社だろう。身重の奥さんを二度も引越をさせるとは・・。」

東京本社のトレーダーに抜擢されたというのは聞こえは良いのですが
その実、バブル前に急拡大する東京市場の本社スタッフの
人手不足が原因だったのでしょう。

それでも、世界のマーケットを東京マーケットが動かしていた時代でした。

「東京マーケットで一旗上げてやる!」
そう意気込んで東京に向かう新幹線に乗り込みました・・・。



夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その3
2009.10.28

脱サラ指数は急上昇したものの、それを踏み留まらせることが
ありました・・・。

「脱サラ評論家」!?としてまた今日も脱サラを目指す方のために
金言を差し上げましょう。

「子はかすがい」
ということです。
よく夫婦間の関係に使われる言葉ですが、これは会社と従業員との
関係でも当てはまるのではないかと思います。
実は、私は転勤の前年に結婚していて、最初の子を授かっていました。
「生まれてくる子のために頑張ろう!」
やはりそう思うものです。
奥さんの大きなお腹を見るたびに、仕事が多少自分の意図と違っても
「どんなことがあっても会社は辞められない!」
そう感じていました。

またこれも脱サラ評論家としての研究成果?ですが、
入社して早々辞める方は、やはり独身の方が圧倒的に多いようです。
その理由は、やはり独り身ですから、最近は結構安易に辞めてしまう
のですね。
「こんなはずではなかった・・・」
「自分の目指す道は・・・」
こう追い求めてしまうものです。

ちょっと脇道にそれますが、(いつものことです・・・)
税理士を目指して会社をそれこそ3年くらいで辞める方も結構います。
若手の税理士に独身が多いのもうなずけますね。
20代で辞めて試験を目指すのですから、合格するまで数年間、
さらに一人前に食えるようになるまでの間、やはり独身です。
内緒のお話ですが、この業界では40歳前後でようやく結婚する人も
多いのですね・・・。


お話を大阪本社の債券部のことに戻しますが、
私の脱サラ指数が一時的に下がったことで、新しい職場で必死になって
仕事をしました。

それと大阪という街が本当に新鮮でした。
何といっても食べ物が旨い!まさに「食い倒れの街」です。
毎晩のように先輩に連れられて、「キタ」や「ミナミ」に繰り出していました。
南千里に住んだのですが、緑が多く本当に良いところで
休みになると神戸まで行ったりして、食べ歩いていました。
そんなこんなで仕事よりも何より、大阪がまず好きになったのですね。

ただ、大阪の方がこれを読んで気を悪くしないで下さい。
関西弁というのは正直ついていけませんでした。
河内弁でしゃべっている同僚の女性が何を言い合っているか
さっぱり分かりませんでした。
仕事中にマンザイでもしているかと本当に思っていました・・・。

でも大阪は今でも大好きな街です。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その2
2009.10.27

「3日、3月、3年の法則」
これは以前ご紹介した誰でも一度は会社を辞めたいと思う周期です。
これは私の造語ですが、もう1つお勧め?の造語。
「脱サラ指数」
脱サラしようというボルテージを示す指標です。
100%は辞表を叩きつけた時です。
誰でも潜在的に10%や20%ありますよね?
「こんな会社辞めてやる!」
ふと思いませんか?
朝に満員電車に乗る時や、日曜日の夕方にサザエさんが始まると
この指標は必ず上がります・・・。

やはり私もこの3年目に脱サラ指数急上昇の危機がありました。
最初の転勤です。
どこの企業でも、最初の赴任地は現場を経験させて、
それから本人の適性を見て・・・。
というのが一般的です。
私の勤務していた野村證券も例外なくそうしていました。

ありがたいことに、会社側は私の適性を見てくれていて、
次の赴任地を決めてくれていたのでしょう。
その赴任地は大阪本社の「債券部」でした。
これは実は私の希望した先でもあったのです。
ここでもし、意にそぐわない転勤があると、やはり「脱サラ指数」は
上がるのですね。
最初の3年間で、自分は株式営業には向いていないと感じていました。
どうも株が好きになれない・・・。
これは本音です。
その点、債券は好きでした。
「自分には債券が合う。次の赴任地で債券をもっと勉強して
本当の債券のプロになろう!」
債券の売買をボンド・トレーディングといい、それを扱う人を
かっこいい言い方で「ボンド・トレーダー」といっていました。
本当に高額年俸で外資系に引き抜かれる人も多かった時代です。
ですので、そのときの夢は
「日本一のボンド・トレーダーになろう!」
そう考えていました。

でも赴任初日。衝撃の事実が待っていました。
所属が債券部ではあるものの、その中の「転換社債課」でした。

転換社債は、その当時は大きなマーケットがあったのです。
しかし、その後その市場が商法改正などもあり、一気に縮小して
しまいました。多分ご存じない方も多いでしょう。

転換社債とは、その文字通り、株式に転換できる社債です。
株価の上昇に合わせて債券も値上がりします。
つまり、株の売買とそれほど変わらないのです。
ボンド・トレーダーになろうと意気込んで赴任したものの
また、「好きでもない」株式と付き合うことになってしまったのです・・・。
一気に私の脱サラ指数が上がります・・・。



夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その1
2009.10.26

夢のお話が続いてきたので、また人気シリーズ?を復活させたいと
思います。

このブログを始めて1年以上にもなりますが、
最近、当事務所を訪れる方が、私のことを非常によくご存知のようなのに
驚いています。
やはりこれだけ、あれこれ、しかも好き勝手にアップし続けていると
かなり私のことが分かってしまうのでしょうね。

他のブログのことは知りませんが、私としてもできるだけ、
正直に自分の心情なり、考え方を書いてきたつもりです。
(つい、書きすぎた面もあったかもしれませんが・・・)
それで自然に、私の「素の」人間性が出てしまうのでしょう。

先日も野村證券の後輩が、いきなり尋ねて来ました。
しかも、このブログを、かなり丹念に読んでから来たようです。
「でも先輩はなぜ野村證券をやめたのですか?」
「なぜ税理士を目指したのですか?」
ずばり聞かれてしまいました。

そうなのですね。そのあたりまだ書いていなかったのですね。
昔話をやり出すと、あれこれ脱線して、余計なことまで
つい書いてしまうから、肝心なことに触れていなかったのです。

またしばらく、この「昔話」を書いてみようと思います。
以前は、ブログ・コンサルタントの方から(そんな職業もあるのです・・・)
「アクセス増やすには・・・・」
とよく私がこのブログで触れることを何度も言われた経験があります。
昔話なんてもってのほからしいです。

でも最近は、そんなこと拘らないのですね。
別にアクセス数など、気にしないわけではないですが、
別にいいのです。
好き勝手書いて、自分のことをアピールするべきだとも思うのです。
分かっていただける方だけに読んでもらえれば
それでもいいのではないかとも思うのですね。

実は、ちょうどブログを同じ時期に始めた顧問先の方から
「ブログから大きな商談が来ました・・・」
先日そう言われました。
これは本当にうれしかったですね。
現代では、やはりブログもバカにはできないのです。
本気に商談をしようとする人は、必ず必死気なって
読んでくれるようです。
この方のように、自分の主張を曲げずに繰り返しアピールし続ければ
いつか分かっていただける人が現れるのでしょう。

・・・・そんなことで、また得意の昔話を始めたいと思います。
先日来悩んでいる、「自分の夢」を確認するために・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その21
2009.04.03

初めての赴任地高崎での勤務は3年で終わりました。
新入社員としての洗礼から、社会人としての研修、営業の初めての経験など
さまざまなことをこの地で学びました。
遠くに榛名山を見ながら必死に営業した思い、
本当に自分の原風景です。

ところで4月のこの時期、迎える新入社員に向け、
「オードリーの春日のように」偉そうによく言う私の言葉で
3日、3月、3年の法則
というのがあります。
会社で新人を迎えると必ず訓示として後輩に言っていました。
これは誰に聞いたお話ではなく、私の造語です。
その意味は、
「どんな人でも入社して3日、3月、3年の節目で一度は辞めたくなる
でもそれを乗り越えて頑張って欲しい」
これは本当に私のこの高崎支店での実体験です。

本当に3日でやめる人がいるかどうかは分かりませんが、
自分ではこの3日で社会人としての洗礼を受けました。
学生気分が吹っ飛んだ3日間でした。
3ヶ月というと、丁度新人研修が終わって、現場に出される時期です。
誰でも、ここで世間の冷たさや営業のつらさが分かる時です。
3年と言うと、丁度最初の移動がある頃ではないでしょうか。
初めての移動というのは誰でも結構ショックなものです。
でも、その節目に自分として成長したと本当に思っています。

3年目でこの野村證券を見切って、税理士でも目指せば良かったのかも
しれませんが、やはり、その節目の3年目で踏ん張り、
その後新たな職場で頑張ったことも、また自分自身を成長させてくれたと
本当に思っております・・。

次の新天地はあの商売の激戦区大阪でした・・。
ここからまた波乱があるのですが、
つい調子に乗って、昔話を長くやりすぎました。
読んでいる人も疲れたでしょうし、書いてる本人も「少し熱が入りすぎて」
疲れました・・・。
なかなか脱サラしなくてすいません。

そのうち「続・脱サラ編」をアップしますので、
取りあえず「炎の新入社員編」はこれで終わります・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その20
2009.04.02

証券営業に簿記の研修。
これがその後定着しなかったことを見ると、単に実験的な研修だった
のかもしれません。
ただ、この研修のおかげで、「借方と貸方」の意味くらいしか知らなかった
商学士」も一応簿記というのを知っていると自慢できることには
なりました・・・。
その後、ここで簿記を勉強したことが数年後に
税理士を目指すことのきっかけになったのは事実です。
簿記会計について興味を持って勉強し、その面白さにも目覚めたのです。
単なる簿記3級程度ではありましたが・・・。

実はそのころ証券会社では「証券アナリスト」という資格が
脚光を浴び出していた時でした。
結局、簿記の研修はアナリスト試験に振り返られたのだと思います。
しかし、今はその証券アナリスト試験もなくなってしまったのでしょうか。
FP(ファイナシャル・プランナー)試験に取って代わられています。
証券会社自体もいろいろ試行錯誤していた時期なのでしょうね。

確かに、その頃から証券会社自体の体質が変わりつつあったのは
事実でした。
「義理・人情・浪花節」の「株屋」から「金融マン」に脱皮しようと
もがいていた時期なのでしょう。
単なる株の予想屋ではなく、
取引先へ会社の財務内容を教えてもらって、それに基づいて
提案営業するような「画期的な営業手法」
を目指そうとでもしていたのでしょうか。
銀行に負けない「ハイテク手法」を考えていたのでしょう!?

ただ、会社の掲げる理想的な目標とは裏腹に、営業店の現実では
「上がります。儲かります。」
という古い株屋的体質が根強くはびこっていたのも事実でした。

3ヶ月も「理想的な研修」を受けましたが、支店に戻ると
まったく変わらない日常があり、せっかく学んだことはあっという間に
忘れ去られてしまったようです。
研修課長スイマセン・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その19
2009.04.01

20数年前の野村證券での簿記の研修がどんなものであったか。
これを公開することは守秘義務があるのでしょうか。
まあもうだいぶ前のことですし、時効!?でしょう。

何といっても証券会社における初の簿記研修!
どの程度の内容であったかというと、
内容はなんと!簿記3級程度でした・・。
経理担当者を集めたわけでなく、営業マン向けの研修です。
それも初めて「簿記」を習う「おじさん」向けの研修です。
いい年をしたおっさん達が、
「借方 仕入 貸方 買掛金・・・」
なんて習うわけですから、皆一同ちんぷんカンプンな訳です・・・。
今思い出しても懐かしいですが、確かに「こっけいな」光景でした。
それと、その研修課長の厳命で
「研修期間中に簿記3級を絶対に受かること」
というハードルを与えられていました・・・。
そういう社命があったせいか、悪戦苦闘して必死に習っていました。

でも教える側が、若いホヤホヤの会計士の人でした。
多分野村證券の人も「簿記」をどう教えていいのか分からなかったのでしょう。
いくら知識があるとはいえ、やはり教えた経験のない会計士の先生では
荷が重かったのでしょうか。
教え方は正直イマイチでした・・・。
会計が分かっていることと、会計を教えられることはやはり違うのです。
ただ、この経験はその後税理士として簿記講師をやった時に
かなり生かされました・・・。

簿記3級というのは、ご存知の方も多いとは思いますが
高校生でも楽に受かる試験です。
でも、頭の固くなったおじさんたちも必死になって勉強していました。
努力の結果、なんとか全員クリアしたと思います。

「何だ!今税理士として偉そうにしている割には、
最初はやっと3級受かったくらいのレベルか・・」
と突っ込まれてしまうかもしれませんが、
これは事実ですので正直に申し上げたつもりです。

ただこれがすぐ脱サラ=税理士に結びついた訳では
まったくありませんでした・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その18
2009.03.31

入社3年目で何となく営業というものが少し分かってきたのかもしれません。
でも法人課に移動したおかげで自分の人生を左右するような出来事に
遭遇しました。(少しオーバーか・・・)
実は、法人課に移ったことで、社内の長期研修に選抜されたのです。

当時、前にもご説明したように、証券会社は「株屋」的な古い体質が
色濃く残っていました。
とにかく「根性!」みたいな・・・。
つまり「頭で考えるより、身体を動かせ」という特異な営業体質です。

証券会社では「義理・人情・浪花節」という言い方も当時ありました。
結構このフレーズ個人的は好きだったのですが、
そういう古い体質とともに、結果がとにかく重要視されました。
「間接金融から直接金融へ」
「銀行に追いつき追い越せ」という風潮がありながら
一方で、過程はともかく、常に「結果」が求められる体質だったわけです・・・。
要するに、そういう体質から、当時は研修などあまり重要視されなかったと
いうのも言いすぎでしょうか。

しかし、その頃の野村證券の古い体質だけでなく、研修制度までも
変えようとする若き課長さんがいました。
その後あっという間に偉くなった方です。
(あまりに有名人なのでもちろん匿名で・・)

私自身もその方を尊敬もしていました。
その方が、長期の研修制度を多分始めて導入したのではないでしょうか。
3ヶ月間にも渡る長期の研修制度でした。
新入社員研修ではなく通常の営業社員向けの研修です。
3ヶ月間、研修寮に寝泊りして詰め込まれます・・・。
結構キツイ研修だったのですが、中には入社10年選手の方や
トップセールスマンのような方もいてかなり刺激をうけました。
しかも3ヶ月間も寝食一緒ですからかなり仲良くなります。
週末に飲みに行くのが本当に楽しみでした。
初めて「銀座」で飲んだのもその頃でした・・。(このお話はそのうち・・・)

しかし、そこで私の人生を左右する研修を受けました。(また大げさか・・・)
そうです。そこで初めて「簿記」の講義を受けたのです・・・・。
証券会社内で、初めて簿記の研修が行われたのです。(多分です)
株屋さんに「ハイテク」教育が初めてされたのです!?
まさに画期的な、自分の人生を変える研修でした・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その17
2009.03.30

移動した法人課というセクションは県内の金融機関を主に担当していました。
つまり群馬県の信用金庫や信用組合、農協などです。
今では合併が進んでかなり数が減ったらしいですが、
当時は中小含め結構多くありました。
それを車で毎日のように営業回りです。

また営業の忘れられないお話をしましょう。
合併されてもう無くなってしまった信用金庫なのですが、前橋の方に
ある信用金庫がありました。
実は前任の担当者はトップセールスマンでした。
それを3年目の若造が引きついだものですから、本当に苦労しました。
相手は50歳くらいの担当者。自分の親位の年ですので、
正直何と言っても話が合わない。

高崎から車で40分くらい。毎日のように顔を出しました。
担当し始めたのが6月くらい。それから通っても、通っても
なかなか商売に結びつかない。
かなり堅物の担当者で本当にまともに話もできない。
上司からそれでも毎日通えという指示です。前任の担当者は
結構その信金で営業成績を上げていました。
こちらとしても、かなりのプレッシャーでした・・。
「何やっているんだ!」当然怒られてばかり・・・。

それでも担当者と話をあわせるために、こちらも必死になって勉強しました。
金融や為替の動向など、野村総合研究所や東洋経済の雑誌など
話のタネに何か役に立つような資料も持っていったつもりです。
真夏にも必死になって通いましたが、それでもなかなかまともに
話もできない。
この時も本当に悩みました。
「自分はやはり営業向きでない・・・前任者には絶対勝てない・・・」
相手の懐に飛び込めないもどかしさを感じていました。
夏が過ぎ秋も深まってきた頃でしょうか。
その時はもう紅葉の季節になっていました。
その信用金庫に入る直前、赤城山の燃えるような紅葉が目に入りました。
本当に見事な紅葉でした。それは今でも目に焼きついています。

担当者に会った時、自然に言葉が出ていました。

今日の赤城山はすばらしいですね。」

堅物の相手が初めて笑顔を見せました。
多分地元でも一年に一度くらいそんなすばらしい赤城山が拝めるのでしょう。
それを褒められて本当にうれしかったのだと思います。
向こうから地元の自慢話をし始めました・・。
「これか・・・」
初めて相手の懐に入った感じがしました。
それからほどなく、その信用金庫は稼動し出しました・・・。

自分のセールスマン時代の究極のセールストークだったと
たまに懐かしく思いだされます・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その16
2009.03.27

入社3年目で早くもターニングポイントを迎えました。
2年間個人向けの証券営業やりましたが、どうも成績が芳しくない・・。
理由は分かっていました。
先日アップしたように、「口がうまくなく」性格的に営業向きではないということと
根本的なお話なのですが、どうしても株が好きになれなかったことです。
高校時代から証券会社に憧れ、大学では証券論まで専攻しながら
どうしても株が好きにはなれませんでした。

証券会社では株が好きな人の集団です。
自分の好きなものだから他人にも勧められる。
普通はそうなのでしょう。
でも私の性格からなのでしょうが、株が上がったり下がったりすることの
意味がどうしても納得できない。
自分で納得できないものはやはり他人には勧められない。

できる営業マンというのは、納得できないものでも、何でも売ってしまう。
「この株は上がるものだ」とマインド・コントロールして売ることができる。
そこに根本的な差を感じていました。

株については結構勉強もしました。
チャート分析もやったし、日々の出来高を見て上がりそうな株の
タイミングを掴んだり・・・。(これ自慢ではないですがものすごいノウハウ)
あれこれやりましたが、やはり株というものは理解できませんでした。

3年目になり、個人向けの営業課から、法人主体の法人課への
支店内移動がありました。
なぜ移動したかというと、債券の営業が得意だったからなのです。
「上がります。儲かります。」という株のあいまいな営業より
確定利付きの国債を売る方が自分の性分に合っていたのでしょう。

でも、最近でもお客さんから株のこともよく聞かれます。
野村證券にいたことを知っているからこそ聞いてくるのでしょう。
あのころは必死に株式相場欄を見て研究していましたが
相場観のなくなった今は、正直分かりません。

「自己責任が原則なのですよ・・・やめた方がいいですよ。
それより本業にまい進して下さい。」

逃げるわけではないですが、そういうことにしています・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その15
2009.03.26

でも誤解のないように書いておきましょう。
営業がイヤだから、ノルマがきついから会社を辞めたのではないと。

たかだか4年くらいしかやっていないので、営業について
偉そうに語る資格ないかもしれませんが、営業と言うのは
本当に商売の基本なのですね。
今まで税理士としても、さまざまな商売を見てきましたが、売上を上げるには、
つまり利益を出すには、やはり営業力がなければダメなのです。
「中小企業の社長さんは、トップセールスマンではなくてはならない。」
これ私の持論です。
しかも、営業部長でありながら、総務部長兼経理部長で庶務も・・・。
要するに社長は何でもできなければならないのですね。
ただ会計事務所が仮に経理部長の代わりを勤めたとしても
やはり営業部長は社長さんがやらなければならない・・・。

そういう営業の重要性も学びましたが、一方で営業のツラサだけでなく
喜びも味わいました。

こんな経験もしました。
「こんな辛い営業、何が楽しいのですか?」
支店内のある酒席で酔った勢いで、先輩に真顔で聞いたことがあります。
その先輩は
「営業は確かに10あれば9苦しいかもしれない。でも1喜びもある。
それが楽しいし、その1の喜びを味わいたくて努力するのだ・・・」

まだ若かった私は
「そんなものかな・・・でも9苦しいのもイヤだな・・」
と思ったことも覚えています。

でもその後、1の本当の喜びも味わうことになります。
確かにそれが忘れられないのでしょう。

前にアップしましたが、群馬県のある農協に2億円の国債を売りました。
約定して農協の前の公衆電話から「震えながら」上司に報告したこと
本当に今でも覚えています。
また、投資信託を支店のノルマ全額に相当する3億円を一発で売って、
支店に帰社した時、全員からスタンディングオベーションを受けた時・・・。

今でも覚えている本当に忘れられない営業マン時代の楽しい思い出です・・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その14
2009.03.25

証券営業がいくら夢を売る商売と言っても、やはり難しいものでした・・・。
自分の性格からでしょうが、どうしてもお客さんにうまいこと
言えない・・・。
結局のところ営業成績に直結してきます。
営業成績の上がらない営業マンは本当にツライものです。
今思い出しても、懐かしさより、怒られていてばかりのツライ思い出が
蘇ります・・。
黒いカバンをぶら下げて途方も無く群馬県内を駆けずり回った・・・。

根っからの営業マンというのがいるのですね。
本当に口がうまい。
同僚や先輩を見て
「これは敵わない・・・」
本当に思いました。
世の中には「口から先に生まれてきたような方」が
本当にいるものだと。(失礼!)

株式営業は難しいものだと痛感しだしました・・。
それどころか、証券会社はやはり自分の性格には合わない・・。
入ってから本当に思い悩みました。
結局それが数年後退職につながって行く訳なのですが、
ただ振り返ってみれば、辛かったけどこの営業マン時代は
本当によい経験でした。

でもその当時は必死でした・・。
とにかく営業課長が怖かった・・。
「バカヤロー!辞めちまえ!!」
「決めるまで帰ってくるな!」
土日外交、夜討ち朝駆けは当たり前。必死でした・・。
働かされたというか・・。

昔の営業はきっとそうだったのでしょうね。
こういう営業課長は、どこにでもどこの会社にもいたと思います。
鬼軍曹が・・・。

たまに懐かしく思い出されます。
当事務所にもあの「鬼軍曹」がいればもっと営業成績が
上がるのでしょうね!?

「バカヤロー!今月新規顧問先何件やったんだ!」
「お前なんか税理士に向いていない!辞めちまえ!!」
「顧問先獲得するまで帰ってくるな!!・・・・」


(WBCの侍ジャパン。夢をかなえてくれてありがとう・・・)


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その13
2009.03.24

麻生さんにいつまでも文句言っても仕方ないので「株屋」の営業のお話を。
高崎支店で3年の営業とそのあと横浜でも1年間、都合4年も
証券の営業をやりました。

税理士として営業のお話を「偉そうに」いうのは私くらいでしょうか・・・。
でも、せっかくの営業経験を何か役立たせたいし、
営業面で悩んでいるお客さんの何か良いアドバイスができたらと
常に思っています。

では、証券営業の何がキツカッタか。
これも本当によい経験をしたと思うので、少しご説明してみましょう。
また少し、夢のお話につながることでもあります・・・。(ちょっとコジツケ・・・?)

証券の営業も本当に、「夢を売ること」だと思っていました。
例えば私が車のセールスマンだったら、普通はパンフレットを見せて、
「この車の特徴はこうです・・・。他社との違いは・・・」
と営業するはずですよね。

では株式のセールスにはパンフレットなんてありませんね。
「××の株は・・・という理由で上がると思います。」
と口で説明するしかありません。
それを補足する意味で、金利為替など経済情勢の見通しなども説明し・・。
でもこれも全て口頭なのですね。
なお、今も昔もパンフレットなどの断定したもので説明することも
法律により禁止されているのですね。

ですから、車のセールスマンの方が楽ではないかとよく思っていました。
結局、自分自身を売り込むこと、つまりお客さんとの信頼関係を
構築することがまず大前提なのです。
そうしないと、確かに麻生さんのように「怪しい」職業とされてしまうのです。
怪しいどころか、「競馬の予想屋」と同じように「株屋さん」と
また言われてしまうのですね。

でも世の中では、競馬の予想屋と株屋を混同している人が
まだまだ多いのです。

でも、株の営業とはその「株式の夢」を売るのです。
面白いセールスだと思いませんか。
「この株式が2倍3倍、それこそ10倍にもなる夢」を売るのです。
今の経済情勢では想像もつきませんか。

誰でも自分の手持ちのお金が10倍になったら楽しいですね。
宝くじを買ったときの夢とも似ています。
「3億円当たったらどうしよう。」
そう買うときに夢を見ますね。

でも株式投資は、馬券や宝くじを買うのとは根本的に違う
そう自分でも信じて営業してきました・・・。しかし・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その12
2009.03.23

証券マンは昔「株屋」と言われたお話をし出したら、今度は麻生さんがまた
トンでもない発言をしましたね。
あまりブログで特定の方の名をあげてコメントを出しなくないのですが
「株屋は信用されていない。何となく怪しいよ」
この彼の発言には猛反発しておきましょう。

25年前は確かに「株屋」という単語が存在したのはご説明したとおりです。
でも、この21世紀にしかも、一国の首相がこう発言されるのは
やはり許せないのです。
自分の過去を汚された気がします。
ただ私はすでに証券マンを引退した身ですが、
証券会社はぜひ業界をあげて猛反発して欲しいと思いますね。
いっそのこと、自民党への政治献金を前面凍結くらい
したらどうでしょうか。(内緒)

これから、当時の「必ず上がります。儲かります。」という
大昔の「博打」のお話をしようとは思っていたところなのですが、
確かに昔、株屋という職業はあったかもしれません。
でも今や株式売買はインターネットが主流です。
しかも昔のようないい加減なことができないように、(これも内緒かな・・)
再三申し上げる「金融証券取引法」の大改正あったわけです。
その改正のためにどれだけ関係者が努力してきたか・・・。

また日本経済の発展のために証券会社の役割がどれだけ大事であったか。
古くはNTTの売り出しや、最近ではJRの売出しなど民営化のために、
また株式だけでなく、国の借金である国債を売るための努力を
どれだけしてきたか。
証券会社の資本主義経済での役割をぜひ改めて認識して欲しいと思います。

私もこの高崎支店時代に初めて発行された超長期国債(20年)を
必死になって販売したのを思い出しました・・・。。

また一方で、税制の面でも、「貯蓄から投資へ」という流れで
特に証券税制も大事な一役を担ってきたと思うのです。

麻生さんは多分「税制改正大綱」をよく読んでいないのかも知れませんね。
これも当然閣議決定しているはずなんですがね。
きっと「税制改正おおつな
と読んでしまうのでしょうね!?(これも内緒に・・・)


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その11
2009.03.19

入社して3年間はこの高崎支店で必死になって働きました・・・。
その当時は「税理士になろう」なんてコレッぽっちも、思いませんでしたが
「野村證券の社長にもなろう」なんても、まったく思いませんでした・・・。

営業やっていて、教わったことも本当に多かったです。
いろいろな方に出会い教わりました。
前にアップしたように、新社会人に少し言っておきたいみたいな
「小うるさい」中小企業の社長さんも当時は多かったです。
でも今思えば、そういう方々の出会いによっても
自分が成長したように思います。

また群馬県という地域性もよかったと思います。
群馬県は暖かい人が本当に多かったです。
その後転勤した大阪や神奈川とは比べ物になりません。(内緒)
「田舎」といったら失礼でしょうか。
都会にはない、のんびりとした土壌が私には合っていました。

そういう商工業の町や農家の方々にとっては、金融機関というのは
地元地銀であり、農協を指します。
資産運用で証券会社を選ぶというのは選択肢としては
普通にはありえないような時代背景もあったように思います。

証券会社=株屋 やはりそう見られました。
でも本人としては、
「銀行よ!サヨウナラ!証券よ!コンニチハ」
という啓蒙運動をやっているという気構えさえありました。

田舎の人に(失礼!)、「資本主義経済の仕組み」を教えてやろう!
それぐらいにも思っていました。
啓蒙運動の教祖であると、自分は布教に出向くようなつもりでした。
遠くに榛名山を眺めながら田んぼのあぜ道を駆けずり回って外交しました。

高崎支店にいた3年間、どこにでも外交しました。
所構わず飛び込み外交して、当時首相だった中曽根康弘氏の実家に
知らないで入ったこともありました・・・。
25年前は、クールビズなんか当然ですがあるわけもなく、
真夏にスーツに汗の塩が噴出しながらも走って外交していました・・・。

高崎から、前橋くらいは序の口で、館林や桐生までも。
また沼田(あの尾瀬の近く)や下仁田(こんにゃくで有名、
でもそれしかない田舎)にもよく行きました。
駆けずり回ったという方が適切でしょうか。

あの頃の私はどんな夢を追いかけていたのか分かりませんが
あの遠くに見えた榛名山がセピア色に懐かしく思えます・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その10
2009.03.18

一人で昔を懐かしがっていると
最近の証券会社のことをよく知っている方から
また突っ込まれそうですね。

「証券外務員の資格が無いものに証券の営業させるはずが無い!」と。
そうなのですね。
普通の方はご存じないのですが、結構証券会社というのは
法律に制約されて厳しいのです。
それが一昨年の金融証券取引法の改正により、さらに厳しくなりました・・・
実は証券会社に入社したものは必ず外務員資格を必ず取らせるのです。
要するに免許なのですが、その免許がないと何もできない・・・。
外務員資格がない者に対して、今では絶対そんなことさせないでしょうね。
でも昔は何でもあり!?だったのですかね。
ブログ書きながら気づきました・・・。(マズイか・・)
でも「名刺集め」というのは数十年前からあった証券会社での「伝統行事
だったのでしょう。
名刺集めとはいえ、証券のセールスのために出向くわけですから、
入社したばかりの新入社員であっても、そんなことはできなかったはずです・・・。
ましてや、資格の無い新入社員が電話による株のセールスなんか
絶対にできなかった訳です。
でもなぜか昔はやっていたのですね・・。(内緒)

やはり25年前の証券会社はまだまだ「株屋」的な体質が
多く残っていました。
これは本当に入社してから分かったことです。
資本主義経済を支えているのは証券会社だ!」
大学で証券論を専攻までして、意気込んで入社した割には
その後、「株屋と資本主義経済のギャップ」に悩むことになります。
でも、今思えばもともと「体育会系」の私には社風が
あっていたのかもしれません。
とにかく「根性」みたいな・・・。
以前ブログにも書きましたが、本当に毎朝6時に起こされて
マラソンしていました・・。

無我夢中で飛び込み外交を続けていたら。気が付いたら高崎から
前橋まで歩いていた!?なんてこともありましたね。
とにかくおかげで「ど根性」はついたのは間違いありません・・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その9
2009.03.17

人生で一番長い日の続き、実はまだあります。

初日からすばらしいお客さんに出会えてハッピーなスタートが切れた
だけで終わらなかったのですね。

夜の7時過ぎに疲れて支店に戻ると、心の中では
「もう遅いし、これで帰るのかな」とか
「何か歓迎会でもあるかな」
くらい甘い期待をしていたのですね。

でも、やはり証券会社というところは甘くは無かったのです。
それで終わらなかったのです。

いきなり電話帳をどさっと渡されて、
「今から株のセールスをするから・・・」
と電話によるセールスが始まりました・・・。
その株の内容もよく分からないのにいきなりセールスです。

「こんばんは。野村證券の吉田と申します・・・」
手当たり次第に電話して
「×× の株がお勧めです・・・」
何て始まったのです・・・。
いやはや参りました。
それが9時過ぎくらいまでやったでしょうか・・。

結局あれこれやって終業が10時過ぎ。
さすがに初日の緊張と慣れない仕事でもうヘロヘロです。
正直もう帰りたいと思っていると

「では、これから新人の歓迎会でもやるか!」
「えっ!・・・」

もちろん。断ることもできず先輩達から酒を飲まされました・・・。
本当に終わったのは12時過ぎ、本当に独身寮に戻ってバタン・キューです。

毎年4月1日。
あの頃を思い出し、自分のスタートの日だと本当に思います・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その8
2009.03.16

昭和59年4月1日。
自分の今までの人生の中で一番長かった日です。

社会人になっての初日に生まれて初めての「飛び込み外交
ほんとうに無我夢中でした。
でもやはり社会からの厳しい洗礼を受けました・・・。
「結構です!」
「もう来るな!」
「うるさいからいい!」
まあその程度のお話はまだまだ序の口なのでしょう。
その後営業でいろいろ経験したので思います。
でも生まれたての新人にはキツカッタ・・・。
暗くなるまで必死になって一件、一件回りました・・・。
なかなか話すら聞いてもらえません・・・。

でもその日は4月とはいえ、本当に寒い日でした。
群馬というと「からっ風」が有名ですが、その風も本当にコタエマシタ・・・。
新調した三つ揃えのスーツでも刺すような寒さを感じました。
しかも、足を棒にして回ったけどなかなか名刺すらもらえません・・・。
世間の厳しい風あたりにも余計寒く感じられました。

でも、日も落ちてこれで最後かなと思いつつ、ある町工場に入ったとき、
「寒いのに大変だね~。ストーブにでも当たっていきなよ~。」
その暖かい言葉忘れません。
出してくれたお茶も本当にうれしかった。
何を話したがまったく覚えていませんが、
「群馬にもいい人いるのだな~」しみじみ思いました。
おまけに、説明がまったくでず、パンフレットだけ渡した
中期国債ファンド」を翌日わざわざ店頭まで来て
大金で購入していただきました。
自慢ではないですが、野村證券同期中で「初注文」でした・・。

その後「飛び込み外交」を中心に数年やりましたが
これこそ営業の基本なんですね。
つらいこともありましたが、それはそれでよい経験をしたと
本当に思っています。

当事務所も駅前なので、4月にはいると「新人君」が
大挙して押しかけてきます。
「私コチラの地区担当の・・・」

「おうおう。また今年も来たか・・・」懐かしくなります。でも
「結構です!」ワザと冷たくあしらって反応を見ます。
あっさり引き下がられると結構がっかりしてしまうことすらあります。

「ダメだよ。足を扉に挟むくらい・・身を挺して扉を閉められないように・・・」
なんて実は心の中では思っています。
これも毎年の4月の楽しみでもあります・・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その7
2009.03.13

楽しかった学生時代のことをいつまでも書いていたら
なかなか「脱サラ」のお話に進みませんね。

社会人としての夢のお話もイヤイヤながら書いていきましょう。
ただ証券会社の悪口を書くのではなく、なぜ税理士という夢を描いたのか
ということを中心に・・・。

1984年(昭和59年)、私はあの野村證券に入社します。
ただ「野村證券の社長になろうという夢」(=うぬぼれ)は三日で
消えてしまいました・・・。
野村證券に在職した8年あまり。
私は人間的に本当に鍛えられたと思っています。
その意味で野村證券には本当に感謝しています。

4月1日、群馬県の高崎支店に赴任します。
そこで社会人としての洗礼を受けました・・・。
初日の出来事です。これもネタではなく実話です。一生忘れないお話です。

野村證券では当時新人は「名刺集め」という儀式を受けます。
要するに飛び込み営業です。
注文をもうらうまでいかなくても、とにかく相手の名刺をもらう・・・。
今ではそんなバカなことをいきなり新人にやらせることはなく、
数ヶ月の新人研修があるらしいですが、当時は本当にスパルタでした。
証券の「しの字」も知らない「生まれたての」新人が
洗礼を受けたわけです。
高崎駅からバスで10分くらいのところに、「問屋町」という
商工業者の密集している工業団地があります。
そこにいきなり連れてかれて、「今から名刺集めをして来い」という指令です。

本当にドキドキしたのを覚えています。
学生時代にアルバイトをしまくった私でさえ
いきなり知らない会社に飛び込むのはもちろん初めてで
本当に勇気が必要でした。
「いきなり入ってどうしよう」
学生の気分が抜けていない私は
戸惑いながら会社を眺めていました・・。
悩みながら歩いていると、とうとう問屋町の端まで来てしまいました。
そこに「大富スプリング」という会社がありました。
何故か今もその社名をハッキリ覚えています。

「ここから始めよう!」
スプリングという名前で、意を決して思いました。
まさに社会人としての「スプリング=飛躍だ!」
そう心に決めました。

会社の人がビックリするくらい大きな声で入ってやろう!
思い切りよくドアを開けて、腹の底から声を出しました。
そのあとの言葉一生忘れません。

「こんにちは!私!早稲田の!!!・・・?



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その6
2009.03.12

大学時代のことをあれこれ書いてきましたが
「先生がさかえ通りで安酒を飲んでいたのは分かりましたが
では大学時代いったい簿記会計をどれくらい勉強したのですか?」
と今度は突っ込まれてしまいそうですね。

夢のお話から脱線してしまいますが(いつものことか・・)
これも講演会で必ず私がいう「ネタ」なのです。
多少ハジをしのんでご披露しておきましょう!?

正直申し上げて、大学時代に簿記の授業には出たことはありませんでした。
ということは簿記会計をほとんど勉強したことはありません。
全国の税理士の皆様すいません・・・。

商学部なので、実は簿記は必修科目なのですね。
でも古き良き早稲田の黄金時代
本当に良い先生が多かったと思います!?
その簿記論で著名な教授は、常に出席を取りませんでした。
よって普段の授業はいつも数名しかいいません。
ほとんどの学生はサボっているようでした・・・。
よって、私もその教授には悪いと思いつつ(本当です)、
出席したことはなかった訳です・・・。
最初の授業と最後の授業で教授に会うくらいで、
ほとんどその教授の顔を覚えていません。

でも、その著名な教授は実に親切でした。
どんなに学生がサボろうと単位をいただけるのです。
というのは最後の授業で、試験に出す問題のヒントまで教えてくれました。
どんなヒントだったかはっきり覚えていませんが、要するに
借方と貸方の意味」さえ知っていれば、どんな学生でも
解けるような問題を出すと事前に教えてくれていたのです。

よって学生は試験直前に「借方と貸方の意味」を
必死になって覚えます。
どうやって覚えたかが重要なのです。それは
借方のリは左のリ
それだけです。
要するに借方が左側であれば、あとの貸方は右側なのです。
本当にそれだけ知っていれば誰でも解ける問題でした。

すいません。正直申し上げたつもりです。
その教授のおかげで、単位もいただけ、卒業もできました。
それで私も今偉そうに税理士やっているのです。
本当にいくら感謝しても足りないくらいです・・・。

ただ、講習会で必ずいうお話なのですが
「借方と貸方の意味は無意味です。そんなことはどうでもよいです。」
そう説明してから超簡単経理を説明することにしています・・・。

借方のリは左のリ
これは私の講演会ネタです・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その5
2009.03.11

証券会社のお話をしだしたら、日経平均がバブル後の最安値
更新してしまいましたね。
まさにドンピシャのタイミングでしたね。

昨日、「これからは証券の時代だ!」と意気込んで
会社を選んだと書きました。
これは本当に当時そう思っていました。
1984年のことです。ですのでもう25年も前のお話なのですね。
日経平均が1万円を越え、それからその後3万8000円の高値まで
駆け上ったのです。
連日株価チャートが報道されていますので
ご覧になっているとおりです。
自分の相場観経済を見る目を自慢しなければなりませんね!?
まさに私の睨んだとおり、間違いなくその後の数年間は
「銀行よ サヨウナラ。証券よ コンニチハ。」
だったと思うのです。

確かにその後、後悔した場面もいろいろ出てくるので、
結局訳あって退職した訳ですが
それはそれで面白い場面を多く経験させてもらいました。
夢のような=バブルのような 場面もたくさんあったのです・・・。

学生の頃の夢のお話に戻りますが、
では、学生の当時に、証券会社に自分の「」を託したのでしょうか。
もう25年前のことなのでハッキリとは覚えていませんが
そうとばかりにはいえないのでしょう。
「野村證券の社長になろう」という夢くらい思ったはずですが・・。

学生時代はいろいろ回り道したつもりですが、伊吹信介同様、
自分の「夢」を探し続けていた時代です。
ただ大学3、4年生となり、やはり現実を直視し始めたのです。
子供の頃見た夢をいつまでも追い続ける訳にもいかない
現実があるのです。どうしても就職して働かざるを得ない・・。

でも「さかえ通り」で安酒を片手に、友人達と熱く語り合った「夢」も
それはそれで楽しかったと今でも本当に思っています。
「夢」を見るのも学生の特権なのですね・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その4
2009.03.10

「どうして野村證券に入ったのですか?」
という質問にそろそろお答えしなければなりませんね。

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自分の夢探しとは別に、高校時代の頃から実は証券会社に入ろう
思っていました。
驚かれるかもしれませんが、間違いなくそんな学生は少なかったはずです。

子供の頃、私の父はサラリーマンながら、よく株をやっていました。
その手伝いで「チャート」を書かされたものです。
そんな経験から株に何となく興味があったのでしょう。

漠然とそんな幼児体験から、商学部で迷わず「証券論」のゼミに入りました。
当時の商学部は成績のよい人たちの間では、銀行と商社が人気でした。
今も多分そうだとは思いますが・・・。
人気のあるゼミからは、つまり成績のよい学生の間では
そういう業種の一流企業に入るのが「」だったらしいです。
当時の一番人気は「日本興業銀行」でした。
早稲田から興銀に入ると、「就職体験記を全学部のトップページで
書けたくらい」自慢できたものです。
今では無くなってしまった銀行ですが・・・。

ただ証券会社は間違いなく当時もあまり人気のない業種でした。
ですので、証券会社を回りだすと同期の友人の中では誰よりも早く
内定をもらいました。
ゼミの先生が三洋証券の顧問をやっていました。
当然入社するように言われましたが、これも無くなってしまった証券会社です・・。
入社していたらどうなっていたか・・・。

でも、丁度大学4年生のときに初めて、日経ダウが1万円を突破します。
「これからは間接金融(銀行)より直接金融(証券)の時代だ。」
「資本主義経済を支えるのは証券会社だ!自分の選択には間違いが無い!」
うぬぼれにも近い確信を持ってもいました。

ただ証券会社の実態は、やはり お気楽学生さんには
分かりえなかったのでしょう。
入ってから正直「後悔」することになります・・・。
私にも子供が二人いますが、子供に間違っても手伝いでチャートを
付けさすような「バカなこと」は絶対にやらせませんでした・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その3
2009.03.09

高田馬場を下りて線路沿いに「さかえ通り」という路地があります。
今も昔も同じように飲み屋が並んでいます。
この青春の地で私は「酒の味」を覚えましたし、
'亡国の遊戯'「麻雀」も覚えました。

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通りを抜けると、今もある焼き鳥の名店「鳥やす」があります。
その対面に昔「DUO」という喫茶店がありました。
そこがバスケットサークルのたまり場で毎日のように、それこそ
大学の授業には出なくても毎日通っていました。
夜はパブになり、学生の身でありながら、一番安かった「ホワイト」で
友人達と天下国家を熱く語っていました・・・。

カネがなくなると、下落合駅まで歩いていき、駅前にあった「学生援護会」で
アルバイトを探しました。
高額の日当を稼ぐバイトをして、そのカネが入るとまたホワイトを飲む・・・。
どこにでもいそうな「お気楽学生さん」だったのですね・・・。

あの頃から税理士を目指せば良かったのでしょうけど、
税理士や会計士がどういう職業であるかすら知りませんでした。
きっと今の学生も多分そういう人が多いのでしょうね。

よく税理士会で税理士の「地位向上を目指し・・・」なんていう
スローガン(お題目?)を聞きますが、大学回りでもして、
就職活動している学生に対して「税理士とは・・」という運動をやった方が
よほどマシではないかと思います・・・。

この頃自分が何を目指そうとしていたか分かりません。
高校時代にあれほど熱中した囲碁もまた何故か覚めていました。
早稲田の囲碁部は強豪であったものの、数ヶ月で退部してしまいました。
真面目にやっていれば学生名人くらいになっていたかもしれません!?

でも「青春の門」の伊吹信介と同様、自分の夢が何かを模索していた
のだと思っています。
アルバイトを本当にいろいろやりました。
家庭教師はむろんのこと、肉体労働でも販売員でも何でも・・
伊吹信介にあこがれていた私は「血を売るバイト」まで・・・(内緒)

あの頃、いろいろな職業を裏方から見た経験も、
今税理士としてあらゆる職種の方にアドバイスできる「肥やし」になったかな
とさえ今では思っています・・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その2
2009.03.06

脱サラのお話なので、会社勤めしてからのことを書こうと思いましたが
その前のこともお話しておかなければいけませんね。
「夢」のことを書こうとしたら、やはり時計の針をもっともっと前に
戻さなければいけません。
社会人とは「夢」を忘れてしまう悲しい人種ですから・・・。

昭和59年、私は早稲田大学商学部に入学しました。
以前も書きましたが、高校時代に囲碁とバスケットボールに夢中になり、
残念ながら、現役合格することはできませんでした。
一年間真面目に予備校に通った結果、何とか早稲田にもぐりこむことが
できた訳です。

ただ、商学部に入って税理士を目指そうと「間違っても」
思ったことはありません。
子供の頃、漠然と「弁護士」になりたいと思ったことがありました。
でも昔子供の頃夢見た「弁護士」という夢は、
いざ大学に入る時に何となく覚めていたようでした。
一応、中央大学と慶応大学の法学部にも合格していましたが
法学部には何故か進みませんでした。
「早稲田が好きだったから・・・」
今思えばそれだけの理由だったと思います。

「自分は何をしたくて大学に入ったのだろう?」
そう自問しながら大学に通いました。
その頃よく読んだ本は、五木寛之の「青春の門」でした。

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何度も何度も読み返したと思います。まさに私の青春の本です。
主人公伊吹信介は「何を自分は目指すのか」それを確かめるために
生まれ故郷の筑豊から早稲田に入学します・・・。
自分と重なるところがあり、ものすごく共感した覚えがあります。
まだ学生でもあり、伊吹信介と同様、まだまだ「夢見る夢子さん」だったのでしょう。

その頃早稲田の商学部には「会計学会」という
会計士や税理士を目指す集団があったらしい!?です。
ただそういう集団には一切関わらず、相変わらずバスケットボールに
熱中していました。
バスケットボールの練習が終わると、授業には出ることなく高田馬場に出て
さかえ通り」のたまり場に、たむろしていました。
今も昔も変わらない「さかえ通り」も私の青春の地です・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その1
2009.03.05

うるさい上司の顔を見たくないと思った朝。
わずらわしい同僚の陰口に閉口する昼。
うっとうしい取引先の接待に疲れた夜。

ふと誰でも
「こんな会社辞めてやる!もっといい職場を見つけよう・・」
と転職を考えるもの。

求人サイトをみて条件の厳しさやその給料の安さに愕然とする・・・。
「まあ仕方がないか・・・。」
「しばらく我慢するか・・・。」
この繰り返しに悩む自分がいる・・・。

きっとこういう方々が、今や世の中では非常に多いのでしょう。
百年に一度の大不況。いつ自分がリストラのリストに乗るか・・。
リストにならないまでも、減給やボーナスカットは日常茶飯事。

「こんなことなら何か資格を取っておけばよかった・・。」
そう思ってる方が多くても無理はないでしょう。
本当に資格の講座がにぎわっているらしいです。
当事務所の歩いてすぐのところに、先日「公認会計士と税理士」の
立派な専門学校もできました。
そのうち公認会計士講座でも受講しようかなと・・!?

これから私の脱サラして税理士を目指したことを書いていきますが、
それほど用意周到に勉強していた訳ではありません。
しかも学生時代から勉強した訳でもまったくありません。
勉強を始めたのは30歳を過ぎてからでした。
大学は一応商学部を出ていますが、お恥ずかしい話ですが
簿記論の先生は試験の時にしか!?見たことありません。

大学時代から税理士になろうと必死に勉強していたら、きっと今頃は
中野で「一番大きな」税理士事務所になっていたでしょう!?
(あんまりこういうことを不真面目に書くと怒られるかな・・・)

ただ学生時代から簿記会計の勉強漬けではなく、
いろいろ回り道してきたことも、また今更ながら、
それはそれでよかったかなとも思っています。
おかげで、まだまだ中野で数番目の「小さな税理士事務所」でしか
ありませんが・・・。

夢をかなえよう!と必死に、のた打ち回ってきた「私の履歴書」です・・・。