税理士コラム | 税理士紹介25年、税理士紹介のパイオニア「税理士紹介センタービスカス」

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税理士コラム

吉田信康税理士事務所ブログ

個人事業者フリーランスの青色申告 発刊記念大特集 その2
2011.12.09

なんだか「買ってください」みたいなお話になってしまいましたね。
なんとなく安っぽいので、そんなトーンはやめましょう・・・。


おかげさまで11月に発刊以来、結構売れ行きが
かなり順調らしいです。
日本全国で数万部(私は知っていますが正式発刊数は一応非公表です。)
出ておりまして本当に本屋で「平積み」で売られています。

やはり「自力で確定申告しよう」という人が間違いなく増えていると
思うのです。
でも自力でやろうとする人は誰でも最初は戸惑います。

これはよくアップするお話ですが、
「簿記会計を義務教育で教えないから」
なのですね。

橋下市長に
「大阪を元気にするために大阪だけは簿記会計を義務教育に
取り入れましょう!」

と提言したいくらいですね!?

でも誰もが
「青色申告って何?」
から始まります。

そういった最初の?(ハテナ)を分かりやすくお応えする本が
少ないのでしょうね。

それと今年の動きは前からこれも申し上げていますが
「還付申告が1月1日から提出可能」
になったのですね。

こういうお話をお客様にいうと、必ず
「ぜひ早くやってください」
と言われますね。
誰もが早く税金を返してほしいですからね。
だから早く準備する人も多いのでしょう。


あと今年多い相談が、「寄付金控除」ですね。
これは個人事業の方に限ったことなく、サラリーマンの方に
当てはまるのですが、
「確定申告を早くしなければ・・・」
となんとなく感じているようです。

これから週刊誌などこぞって
「取り戻せ税金!」シリーズを取り上げて煽るのでしょうね・・・。

とにかく
頑張りましょう!確定申告!!


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その34
2011.09.16

ドリームズ・カム・トゥルー


「何としても合格したい!」

その誰にも負けないほどの強烈なマインドが国税庁に通じたのか、
その年一気に2科目合格でき、私の悪戦苦闘記はピリオドを打つことに
なります。


12月の合格発表の朝、まったく仕事の手につかない私は、
会計事務所をこっそり抜け出し、合格者名簿を手に入れるために
わざわざ官報販売所まで行きました。

合格発表は今ならWeb上で見られますが、当時は、郵便の合格通知を
待つか、官報で確認するしかなかったのです。

官報を買って、震える手で自分の名前を探しました・・・。
名簿に自分の名前を見つけた瞬間、まさに天にも舞い上がるような
気持ちでした。

当時は携帯電話なんか持っていなかったので、
とにかく妻に合格を伝えようと電話ボックスに走りました。
慌てた私は、試験の直前にお守りにもらった大事な
「湯島天神のテレフォンカード」で、電話していました。

湯島天神.jpg

そのとき何を話したのか、何を伝えたのか今もって
まったく思い出せません。
うれしさのあまり、一瞬記憶喪失になったかのようです。
気がついたら事務所に戻っていた感じでした・・・。

そのたった一度しか使ったことのないテレフォンカードは
今でも私の大切な宝物、お守りとして、それからいつも財布の中に
入れてあります・・・。


(炎の受験生編 おしまい)

Ps.
長々とお読みいただき誠にありがとうございました。
これだけ正直な合格&不合格体験記はほかにはないでしょう。
業界体験記まで織り込んでもあり、この苦労話と自慢話?は
受験生の皆様に、きっと何かの参考になると思います。

野村證券を退職してから5年あまり、無我夢中で勉強し、
かつ修行もしました。
長く辛かった日々かもしれませんが、今思えばあっという間でした。
でもあの苦労した5年があるからこそ、今税理士業務を自信もって
できていると実感します。

あの大震災から日本の本当の意味での復興まで、最低5年はかかると
いわれています。
現在あの震災により希望をなくされた方、ご苦労されている方も
まだまだ多いと思います。
勇気を持って、そして夢を持って、自分の人生を切り開いていって欲しいと
心から願います。


九州のある方からメールいただきました。
私のブログをきかっけに退職して税理士を目指される旨が書かれていました。
本当にうれしいものです。
受験生のお一人でも勇気づけられたかと思い、感無量です。
頑張ってください。心より応援します。
税理士会館であなたをお待ちしております・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その33
2011.09.15

大隈さんの銅像の前で


受験生の皆様にエールを送るために、
試験場での丸秘テクニックを教えましょう。

大隈重信.jpg

試験会場の早稲田大学のキャンパスには、
創立者大隈重信さんの銅像があります。

一応早稲田OBの私としても当然よく知っている銅像です。
ただ、在学中は入学式と卒業式に記念写真撮ったくらいで
正直ほとんど印象になかったのですね。

でも卒業してから、こうやって毎年試験を受けに来る度に
この銅像をながめるようになりました。


8月の暑い盛り、税理士試験は平日に行われます。
銅像の前でこう思うのです。

「また今年もこの場所に来られた。
こんな幸せな男はいない。
自分の人生を自分の意志で生きている。」


どういうことか分かりますか?
サラリーマンだったときは、会社や上司の命令で
働かされるのですね。
以前アップしたように、私は何度も社命令により転勤もしましたね。
なかなか自分の意志を貫くことはできないのですね。
それこそ税理士試験受けたくても仕事で当日来れない人さえ
いるのです。
思い通りにいかないのがサラリーマンでしたからね。

だからこそ脱サラしたともいえるかもしれません。
一度しかない自分の人生を自分の意志のとおりに
生きてゆきたいですからね。

誰も頼まれもしない税理士試験を、しかもこんなクソ暑いときに受験するとは
自分の人生を自ら切り開いていると思いませんか。

確かに試験を受けることに、緊張感もあります。
でも、それも「生きている!」と実感できるのです。

この気持ちお分かりますか?
自分の夢に対して熱く燃えている気持ち・・・。


銅像をじっと見ていると、
大隈さんの
「頑張れよ!」
と言う声が聞こえてくる気がしてくるのです。


学生時代は、何も思わず通り過ぎていた銅像だったのですが、
あの銅像の立っている意味が分かるようになったのです・・・。


試験を緊張せずに受けることができる究極のテクニックですね。
「脱サラ」受験生の方にお勧めです。


(次回いよいよ感動のフィナーレ!)


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その32
2011.09.14

夢へのリーチ


税理士試験をクリアするにはあと2科目合格する必要がありました。
麻雀用語で言うと、イーシャンテン。
あと1科目というリーチがかけられるには、まだまだという状態ですね。
でもその頃の自分は、2科目一気に合格して夢への扉をこじ開けようと
していました。

「ヨシ!リーチ一発ツモだ!」

麻雀をやる人なら分かりますね。
リーチをかけるとワクワクドキドキしますね。
リーチは実に楽しいですからね。
2科目勉強することは確かにシンドかったかもしれませんが、
合格の夢を毎日見られることは、それはそれで楽しかったのです。

科目は、「所得税法」と「消費税法」。
前述の通り、所得税は受験生が敬遠する科目です。
でも、ボリュームが多いもののやはり実務では必修の科目ですね。
会計事務所で働きながら勉強している受験生には有利なように思います。

毎日職場に法規集を持ち込んで、常に条文を確認するようにしていました。
例えば、お客さんから「医療費控除」の質問があったら、
条文、通達などから確認した上で、答えるようにしていました。
また消費税も、国税庁監修のQ&Aを、仕事中よく読んでいましたね。

その数年前にT先生のおかげで所得税法という科目自体が
好きになっていましたし、2度目の受験ということもあり、
得意科目にもなっていたのです。
試験直前の7月に、大原簿記学校では「全国統一模試」が行われます。
ここで数千人の中でトップをとりました。(すいません。自慢話です・・・)
これは、その年の税理士試験を自信持って受けることができたのは
もちろんですが、その後税理士となってからも個人確定申告に対して
かなり自信が持てるようになりましたね・・・。


例年のごとく試験の前日まで仕事をして、さあ!いよいよ本試験です。
なでしこジャパンが、ワールドカップ決勝のピッチに立ったときのような
ワクワクどきどき感です。

「絶対に負けないぞ!受かってやる!!」

意気込んで試験会場の早稲田大学に乗り込みました・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その31
2011.09.13

税理士試験に対する本音


就職活動していた頃、ある資産税の大事務所の先生が言っていたことを
思い出しました。

「キミをぜひ欲しい。でも税理士試験は難しいし、ウチの仕事は
キツイから多分税理士になれないよ。それでもいいかい?」

仕事をすればするほど税理士から遠のく実感がありました。
「こういうことか・・・。」
妙に納得していました。
実は、その先生がこんなことも言っていたのです。

「仕事のできる人ほど、当然売上を伸ばすために担当を増やす。
結果的に勉強ができず合格まで年数がかかる。逆に仕事のできない人は
担当が少ないため勉強ができて早く合格しやすい。」

これは、今会計事務所の所長となった私として、真実だと実感しています。
この業界に飛び込んで長いですが、大事務所の番頭さんは、
3科目、4科目合格者が多いのです。
そういう人の仕事ぶりは、新米の税理士の3倍、4倍やっています。
経験も知識も適わないくらい・・・。
ただあと少しというところで、残念ながら税理士になるのをあきらめた人も
また多いのです。

働きながら試験を受けるのは、生半可な気持ちではダメだということなのです。
ということは、逆に今「頼りなさそうな」新米の多くの税理士が
「仕事のできない人」だとまで言いませんが・・・。


私の場合でも、自慢ではないですが、確かに仕事は人一倍やったつもりです。
3年目ながらすでに番頭さんとしての仕事までも。
またすべての担当先の過去の未収金を回収して、
さらには顧問料の値上までやってもらっていました。

先日アップしたある大会社の資本政策で、数百万単位の仕事も取ってきたし、
そういう評判を聞きつけた都市銀行からの紹介で、大口の新規顧客まで
引っ張って来るほどでした・・・。


立場的には所長から、売上を伸ばすように期待されます。
しかし、仕事に手は抜かないものの、それ以上要求されたら、
いっそのこと退職してもいいくらいの気持ちでした。
働きながら合格するにはそれなりの覚悟は必要なのでしょう。

「応援する家族のためにも頑張らなくては・・・」
不合格通知で落胆する顔を見てあらためて思いました。


その翌年、元旦から再スタートを切りました。
大原簿記学校伝説の「炎の受験生」復活です・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その30
2011.09.12

人生の岐路


時代背景としては、その後上場公開ブームとなり、
ホリエモンに象徴されるようなITバブルが訪れます。

上場前の企業に入社して、自社株やストックオプションを
取得することにより「株長者」になること。
それは元証券マンとしては、望むところだったのかもしれません。
一方で急成長している企業に、経理部長として入社することは
現場の経理と上場公開の経験を積むことでは
「キャリア・アップ」という意味では、かなり有効だったのでしょう。

でも、その社長のありがたい申し出は、結局のところは
丁重にお断りしました。

「税理士になるために脱サラしたのだ!」

やはりその決意は固かったのです。
株長者になる見込みもあったでしょうけど、
そんなフロックみたいな錬金術も何となくイヤでした。

実は、その会社だけでなく、野村證券の元上司からそんなお話も
数件いただいていました。


当時は、経理実務や税金が分かって、しかも上場公開のことが
分かる若手の方は確かに貴重だったのでしょう。
そういう道に進む選択肢もあったかもしれません。
そうすれば税理士試験という苦行から開放もされましたが・・・。


経理人として、つまり職人としての腕は確かに上がっていると
思っていました。
再三、料理人に喩えていますが、料理を極めて、例えば「帝国ホテルの
シェフになること」、また「吉兆の花板(料理長のこと)になること」 、
それらは料理人として最高の勲章なのでしょう。

でも、こんな言い方すると失礼かもしれませんが、帝国ホテルのシェフでも
吉兆の花板でも、サラーリーマンはやはりサラリーマンですよね。
脱サラした以上、いつまでもサラリーマンはやっていたくなかったのです。
つまり同じ料理人でも「オーナーシェフ」になる夢を見ていました。
小さな店でもいいから、自分がオーナーとして腕を振るってみたいと
料理人ならきっと誰でも思うはずです。


しかし、そのためには国家的お済みつきのある「調理師免許」つまり
「税理士の免許」はどうしても必要だったのです。


入社3年目。貴重でしかも特殊な実務経験を多く積むことができました。
でもその代償はありました。
仕事に熱中し過ぎていたあまり、実はその肝心な税理士試験の勉強は
おろそかになっていたのです。

結局また一年を棒に振ることになってしまったのです・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その29
2011.09.09

番頭としての修行


会計事務所に入って3年目。仕事の要領も覚えてきました。
実際に思ったのですが、入社1年目で3時間かかった仕事が
2年目で、2時間に。3年目で1時間でできるようになってくるのです。
仕事の段取り、知識、機械の慣れからでしょうか。
まさに「職人」としての腕が年々上がってくるのを実感していました。

入社当時、あれほど社内で聞きまくっていた新人が、
こんどは教える側に回っていました。
社内の案件がほとんどもちこまれ、質問を受けたりチェックをしたり。

ある程度大きな会計事務所で必ずいる、いわゆる「番頭さん」みたいな仕事
なのですね。

そういう大きな事務所の所長は、自身では申告書なんかチェックなんかして
いないのです。(内緒)
職員やこういう番頭さんに「お任せ」なんですね。
ということは、税理士先生は、日中は仕事はあまりしないで、
税理士会の会合に出たり、ゴルフばかり。
この時期「ゴルフ焼け」している先生は、たいていそうですね。
(これも内緒ですが、真面目にやっている先生ももちろん多いです)


ただ個人的には、貴重な実務経験をしました。
やはり、いろいろな企業をみて経験していることは大事なのですね。
実際に勉強していることがまさに実務で聞かれることも多く、
非常にやりがいのある仕事ですね。この「番頭さん」は・・・。


さらに、ここで面白い仕事が飛び込んできました。
顧問先に中のある一社が急成長して、なんと売上100億円規模にもなり、
上場公開というお話がでてきたのです。

当然、上場公開のことなんてまったく知らない所長は、
私を担当させることにしました。

この仕事は面白かったですね。
「資本政策」といって、子会社、関連会社の整理統合がまずあります。
「解散」、「合併」など勉強したばかりのことがたくさんでてくる。
毎日のように会社にいって、監査法人の担当の会計士と打ち合わせ。
証券会社にいたせいもあり、
「こんな仕事をしたかったのだ・・」
喜々として取り組んでいました。


一生懸命やっている仕事ぶりから、その担当先の社長も
私のことを大変可愛がっていただきました。

ある日、その社長から食事に誘われ切り出されました。

「吉田さん。税理士あきらめてウチの経理部長になりませんか?」

上場企業の経理部長への道が開かれそうなときでした。
まさに人生の岐路です・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その28
2011.09.08

ついに・・


確かに働きながら3科目を勉強することは無謀だったのでしょう。
でも、苦しかったけどまさに毎日夢ばかり見ていました。

「三科目同時に受かったら・・・」
「大原簿記学校伝説の人となろう!」

自分の夢のために努力することは決して苦ではないのですね。
しかし、本当に5月過ぎた頃から急に体力的に苦しくなり出しました。
試験直前の難しい講義についてくのにアップアップです。

マラソンに喩えると、
「35キロ過ぎて足が痛くなってガス欠になってきた状態」?
例のヘビーな3月決算もキツカッタ。
それが終わるとさらに7月申告にも苦しめられました。
結局申告が修了したのが税理士試験の前日。

ただ今思えば、本当に仕事もした充実した一年でもあったのですね。
働きながら3科目の勉強は確かにできたのです。


その年の結果は・・・
「簿記論、財務諸表論合格!」でした・・・。
残念ながら消費税はダメでしたが、やはり後半かなりバテタのが
敗因だったのでしょう。

でもこれで簿記、財表、法人税法の必須科目の合格。
ホッとしたのも事実でした。

合格発表の翌日、自分の背丈ほど積まれた過去の簿記、財表のテキストや
プリント類をマンションのゴミ置場に、「思いっきり」ブン投げました。
「これでもう簿記、財表は勉強しなくていいのだ・・・」
その爽快感は一生忘れられませんね。

数年間苦しめられた科目をクリアしたことで税理士になる夢に
一歩も二歩も近づいた実感がありました。


しかし、税理士試験はそう甘くないのですね。
またここで「落とし穴」が待ち受けていました・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その27
2011.09.07

4倍法


税理士試験の特徴は、ある程度のレベル以上なら全員合格するというのではなく
「相対評価」であるということがいえます。
相対評価ということは、まさに敵はまわりの受験生です。
それに勝たないと合格できないということです。

もっと厳しい例えをいうと、税理士試験は10人で1個のイスを取り合う
「イス取りゲ-ム」をやっているようなものです。
残りの9人を蹴落とさなければ勝ち残ることはできない「し烈な戦い」です。
そのためには

「人の2倍や3倍ではなく、4倍やってください。」

実はこの大事なことを教えてくれた恩人が私にはいました。


専門学校で受験に専念していたころ、Oさんという有名な人がいました。
現在では、都心のある税理士法人で資産税の権威として大活躍されている友人です。

その方は、受講するどの科目も必ず満点でトップを取り、あっという間に
国税四法を含む6科目(!)取って官報合格してしまった
まさに"税理士試験の鉄人"のような方でした。


その鉄人がどうやってそんなすばらしい成績を修めるのか、誰もが不思議に思い、
当時私もどうにかその秘密を知りたいと思っていました。

ほんの顔見知り程度でしたが、本試験直後にその鉄人に声をかけ、
強引に誘うことに成功しました。
焼酎のボトルを3本空けたところで(鉄人は酒も強かった!)、
私は思い切って切り出しました。

「Oさんどうしていつもそんなにすばらしい成績を取れるのです?」

その時私は、税理士の家庭教師を雇っているとか、果ては秘密の睡眠学習を
しているくらいの答えを期待していました。
しかし、鉄人の答えは恐ろしいくらいまともなものでした。

「みなさんは勉強のやり方が甘いと思う。人の倍やるくらいは普通で、
人の上をゆこうと思うのなら3倍、4倍やって当たり前ではないでしょうか。
私もたとえ満点取った問題でも自分が納得いかなければ、
何度でも繰り返し解き直しています」


ほろ酔い加減が一変に醒めたのを覚えてます。

誰もが受かろうと思って必死になってやっている試験勉強です。
しかもその勉強もほとんどが同じように専門学校に通い、
同じようなテキストでマニュアル化された授業を受けている訳です。
普通の人と同じことをやっていては勝つ訳ない。

その大事なことを彼から教わりました。
その日から私は人の4倍やろうと決心し、合格するまで実践しました。


「4倍法」。これは自分にとって、今や一つの「人生訓」にもなっています・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その26
2011.09.06

税理士試験合格法!


どうやったら確実に合格できるか?必死になって考えました。
先日ご紹介した弊著「税理士試験こうすれば合格する!」に
すべて書いたつもりですが、今日は著作権に触れない程度に?書いてみましょう。
このとおりにやれば必ず合格します!


1 最前列プレッシャー法

教室でも講義を受ける際に、私は最前列しか座ったことがありません。
一番前とは講師との距離が一番近く、しかも当然さえぎるものは何もない。
つまり、一番集中して講義を受けられるのです。

後ろの受講生のプレッシャーも確かに感じますが、これが程よい緊張感にもなる。
また前に座る受講生は、ヤル気のある人が多く、当然勉強もできる人が多いのです。
そういう意味で、よいライバルがたくさんできます。


2 ノルマ質問法

「ノルマ」なんて言葉は、元証券マンの悲しい「さが」ですかね。
一回の講義で必ず、一回は講師に質問すること。これをノルマにしました。
これは効果ありますよ。

講義を聞きながら、絶えず
「自分はどこまで分かっていて、どこが分からないか」
絶えず考える訓練になります。
ある程度分かった講義でも、
「ここは・・・ということですね。」
と確認の質問するのです。

そうすると、あいまいな内容をそこでしっかり確認できるとともに
講師側も本当はもっと話したかったことも、そこでまた聞けるのです。
これは実にお得な作戦ですね。

それと、この作戦をやると講師と実に仲良くなれます。
税理士となった今でも、結婚式に呼ばれたり、たまに食事したりする仲まで
なっています。ありがたいものです。


3  スタンドコーヒー暗記法

税理士試験の勉強で「理論暗記」という最大の難関があります。
これは、原稿用紙にして3枚くらいの理論をまさに「丸暗記」する勉強です。
科目によって違いますが、その理論の数が、30から60問。
これに苦しむ受験生は多いのですね。

受験に専念していた頃は、古典的な「山手線暗記法」を実践していました。
山手線一周は一時間かかるのですが、その一周の間に、理論一問暗記していました。

でも、働き出すとそんな時間取れません。
時間がなければ作ればよいのです。
スタンドコーヒーとは、ドトールとかスタバとかどこにでもありますね。
職場は9時からでしたので、朝8時に隣にあるスタンドコーヒーに行って
1時間理論暗記していました。

昼も弁当を5分で食べ、あとの残りの55分もまたスタンドコーヒーです。
働き出して、すべてここで理論は暗記したと思います。


理論暗記は確かに苦しいものです。
でも苦しんだおかげで、税法の考え方が身体に染み込んだ気がしています。
税理士となった今本当にそう思いますし、それが実際かなり役立っています。

受験生の皆様。そう思って頑張ってください。



夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その25
2011.09.05

何が何でも学校へ


当時の税理士受験校は通学クラスが主体でした。
今はDVDやWeb授業があるらしいので、様相がかなり違うとは思いますが
とにかく学校へ通っていなければ受かるはずがないと
痛感していました。

そのためには、何より仕事を時間内に終えて、残業をしないように
しなければなりません。
あまりお金のことをいいたくないのですが、そこの会計事務所は
男女差別や年功序列がないといいましたが、待遇もまさに平等でした。
ということは、残業代もない代わりにまさに歩合給。
決算をこなさなければ、手当てがまったく出ない仕組みでした。

そのため、どうやって時間内に終えて決算を効率よく終わらせるか
必死になって考えました。
当然ですが仕事に手は抜きません。

よく思うのですが、試験勉強も仕事もまさに段取りなのですね。
15時以降はアポを取らないで外出しないようにしましたし、
勤務時間内は本当に集中して仕事しました。

定時は5時30分でしたので、それからタイムカード(残業代がないのに
なぜかあった・・・)を打った瞬間に仕事のことを忘れるようにしました。


三科目を取っているので、週に何度も学校にいかなければなりません。
「今日は学校です」
はっきり公言して、積極的に帰るようにしました。

もちろん、仕事が集中した時は、7時、8時になることもありましたが、
それからでも学校の自習室で勉強するようにしました。
実は、仕事場から家と学校は反対方向なのですが、あえてわざわざ学校に
毎日通いました。


8時過ぎてからも重い足を引きずりながら、学校に行くこともあり、
そこからたとえ1時間でも集中して勉強しました。

でも、よく9時頃になって、私よりもっと疲れたような顔して入室してくる
ライバルに出会うのです。

「こんな時間からでもたとえ30分でも勉強して帰るのか・・・
負けられない・・・もっと頑張ろう!」


実はそんな緊張感を味わいたいからこそ、
毎日必死になって学校に通っていました・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その24
2011.09.02

炎の受験生の復活


脱サラして早くも2年半の歳月が流れていました。
「大丈夫。2年で必ず受かるから・・・」
そう家族を説得したつもりですが、結果的にはまだ法人税法しか
受かっていません。

試験の登竜門である簿記論、財務諸表論に苦しめられていました。
特に簿記論です。
正直なお話としてかなりマニアックな科目です。試験のための学問というか。
税理士となった今でも絶対にお目にかからない項目がたくさんありました。
割賦販売、社債の償還・・などなど、まさに試験チックな難問を大量に
しかも高速で解く訓練を繰り返さないと、なかなか合格できないのです。

10代や20代の若い受験生なら、すんなり受けいれやすい分野でしょう。
でもなかなか、「高齢の?」受験生にとってはやっかいな試験科目なのです。
最後に簿記論が残ってどうしても合格できなくて、税理士になるのを
あきらめた方を何人か知っています。

その気持ちよく分かりますね。
簿記論の不合格の通知をもらうと
「またコレを勉強するのか・・・」
そんな絶望感に苦しめられますから・・・。


確かに挫折しそうになりましたが、やはり夢はあきらめたら絶対にかないません。
「税理士になるために脱サラしたのだ・・・」
もう一度、あの脱サラした頃の情熱を思い返していました。

そこで取った作戦は、専門学校の講師なら絶対に反対しそうなことです。
それは、あえて試験科目を追加することにしたのです。
つまり、三科目一気に合格して巻き返しを図る作戦(暴挙?)にでました。

国税三法はそれまで勉強していましたが、あえて国税四法目の「消費税法」を
勉強することにしたのです。
実は、そのころこの業界では消費税を巡るトラブルが多発していました。
消費税は平成元年導入された新税です。
まだまだ不慣れな会計事務所側がその処理を誤ったことにより、
お客さんから訴えられる事件が頻発していたのです。

「これはやはり消費税法も勉強しなければならない・・」

もちろん、税理士試験は税法は3科目だけ合格すればよいのですが
税理士としてやっていくには、消費税の知識は絶対必要だと思ったのです。
これは税理士となった今やっていてよかったと本当に思っています。


普通働きながら三科目をチャレンジする受験生はいないでしょう。
でもそんな無茶な受験生は本当に実在したのです。
さあ!大原簿記学校伝説の「炎の受験生」の復活です・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その23
2011.09.01

会計事務所の仕事

あまりなまめかしいお話を書きすぎましたかね?
これから夢を持ってこの業界に入っていただきたい方には
ちょっとキツすぎましたか?

でも大丈夫です。もう20年近く前にもなるお話です。
もうそんな徒弟制度を前提とした「暗黒の?」時代ではなくなりました。
あれからウィンドウズが発売され、コンピュータが急速に普及しましたね。
そのため、そんな大昔の手書き経理なんて時代遅れに
なってしまったのです。
コンピュータの普及のおかげで我々業界も劇的に改善されました。
もうそんな激務の会計事務所は減ったと思いますね。

しかも今時、そんなに職員を残業代も払わずにこき使ったら
本当に訴えられてしまうのです。
内緒ですが、「残業代不払い訴訟」がこの業界で結構あったのですね。

因みに私が職員を採用してから一度も残業をさせたこともありません。
(ちょっと自慢?)


まあ業界の裏話はこれくらいにして、この会計事務所のすばらしい仕事を
ご紹介しましょう。


この業界に飛び込んで、何が良かったかというと、
「信頼を前提とした」商売がいかにすばらしいかということです。

それまで証券マンとして営業をやっていました。
相手に喜ばれることはあったかもしれませんが、10のうち1あるかないかです。
その残りの9は怒られてばかりいました。
証券営業は儲けさせなければ信頼は得られないからなのですね。

また、営業をやった経験のある方は分かりますよね。
相手にペコペコしなければならない。営業ですからね。
会計事務所というのは営業ではありません。
何かを買ってもらう訳でもなく、相手に喜んでもらうような
サービスをするだけです。
喜ばれて感謝され、実に遣り甲斐のある仕事なのです。

毎月お客さんに伺うとき、本当に楽しかった。
それまで証券マンとして何千、何万社の社長さんと接してきた訳です。
相手の懐に飛び込むのは得意なのですね。
でもそれ以上に、自分の息子のように可愛がってくれる社長さんも
多かったですね。

また、証券マンというのは、お客さんのことがどれくらい分かっているか
というと、会計的には、会社の流動資産のうちの有価証券のところしか
分からないですよね。
銀行の営業マンだって、会社の負債の部と預金の一部しか分かりません。
でも会計事務所というのは、お客さんの貸借対照表どころか
すべての財務内容が分かっているのです。
それどころか極端なお話、社長さんが夕べどこへ行って何を食べたか
さえ知っています。
そういうことをすべて知っている上でいろいろアドバイスできるのです。
これほど信頼される職業はないですよね。


「この仕事は自分にとって天職だ!」
本当にそう思いました。
でもその信頼は税理士という国家資格が前提になっていると思えば思うほど、
どうしてもこの資格を取りたいという夢もさらに脹らんできたのです・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その22
2011.08.31

徒弟制度のワナ


受験生の方にとって、肝心の税理士試験の勉強はどうなったかを
知りたいでしょうね。これも正直に書いてみましょう。


当初入社するにあたって、
「税理士試験の勉強は続けたいので協力して欲しい」
そんな要望を出していたと思います。
どこの会計事務所も、
「もちろん。受験生を応援しています」と言っていましたが・・・。
(この言葉には気をつけなければいけませんね)


1月以降、また振り出しに戻り、簿記論、財務諸表論の勉強を
続けていました。
しかし、働き出すと、もういきなり毎日残業の連続で
簿記学校にもまったく通えなくなりました・・・。

毎日夜の8時、9時は当たり前で、たまには早く帰ろうとすると
7時過ぎくらいなると夜食が出てきます。
これを食べると本当に帰りにくい。

同僚達も普通に残業しているので、新人職員としても仕事を
教わっている手前、やはり一緒に残業せざるをえない・・・。
個人の確定申告などは、当時は今と違ってエクセルもなく、
手作業が基本でしたから本当に手間と時間がかかって仕方がない・・・。
土曜日は休みとは聞いていたのですが、これも残った仕事を
片付けるのに当然出勤です。
因みにそこの会計事務所は残業代も休日出勤手当てもなし、
まさに徒弟制度・・・。


ようやく激務の確定申告の時期が終わると、今度は3月決算に入りました。
そこで手渡されたのが、その事務所一番手間がかかるやっかいな会社。
会社名義で広大な土地を持ち、ビル数棟、しかもそこでいくつか事業も
行っていて、おまけに有価証券売買も大量に行っている・・・。
事務所としては、上得意のお客さんだったと思いますが、
新人経理マンにとってはかなりのボリュームでした。
やってもやって終わらないので、土曜日どころか、日曜日にも出勤。

その後税理士となった今でも、こんなヘビーな決算はしたことがなかったと
思いますね。


日曜日に誰もいない事務所で、ひたすらパソコンと向き合いました。
泣きそうな思いで決算に取り組みましたが、もちろん、誰も教えてくれません。

「先輩の皿を舐めて味を覚えた」新人料理人がいるとしたら、
私は「先輩の作った過去の決算書を舐めて」決算を覚えました・・・。


ようやく6月になって一段落つき、慌てて税理士試験の願書を提出しましたが、
その年の夏、ほとんど勉強ができなかった私はあえなく撃沈してしまいました・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その21
2011.08.30

経理という仕事


現在税理士という専門職についていながら、最初は、経理については
素人同然であったことを正直に書いてみました。
営業職からの転職ですから当然といえば当然ですね。

これは持論なのですが、
料理学校を出たばかりの見習い料理人が、すぐ料理はできないと同じように
簿記学校を出たばかりの見習い「経理人」がすぐ経理はできないのです。


現場に出てすぐ実感しましたが、税理士試験の簿記論や簿記検定試験の勉強は
実際には実務にはあまり役に立たないものです。
三割くらいは必要なことかもしれませんが、あとは実務とは関係のない、
まさに「学問」だからなのですね。


でも最初は「素人同然」であったおかげで、良かったことも多いのです。
つまり、経理を始め出した人達が、
「何が分からなくて、どんなことを知ったら経理ができるようになるか」
それが、よく分かるようになったのです。

当時は、「経理って何だろう?」本当に悩みました。
簿記を勉強することが経理ではないのです。
それが知りたくて、経理の初歩的な本を買いあさってもみたのです。

でもどれを見ても訳が分からないのですね。
税理士の書いた経理の本なんて、
簿記の学問的な知識をひけらかすような、あまり意味がないものが多いです。
知識が必要ではなくて実務的にどうしたらよいかということが大事なのです。

私がかつて書いた「超簡単経理」の本がどうして好評だったのか
お分かりになりますか?

経理の初心者の人が、分からないであろうと思う点、
必ずつまずく点を分かりやすく書いたからです。
そこに「貸方、借方」なんて専門用語は一切書かなかったのですね。
だからウケタのです。

我々会計事務所が、日頃相手にする中小企業は、
決して経理のプロではないのですね。
それどころか、経理の初心者が多いのです。

そういう人達に、どうやってやさしく教えたらよいか、それを考えることは
まさに大事なのです。


当時の会計事務所では、ウィンドウズ発売前で、「手書き全盛」の頃です。
それを毎月、手書きで現金出納帳、預金出納帳をつけさせた上で
さらに伝票起票までさせていました。
経理の素人の方に対して、伝票起票なんてやはりできなくて当然なのですね。
難しい複式簿記を強制すること自体やはり無理なのです。

できないのに無理に強制して、しかも「月次監査」とかもっともらしい理由で
わざわざ毎月押しかけていって
「ほらやはりできない」
ダメだしばかりです。
そんなことは大変失礼なお話だと思いませんか。

私は絶対にそんなことはさせません。
自分の経験から、経理の素人の方の気持ちが誰よりも分かるからです・・・。



夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その20
2011.08.29

徒弟制度


レストランに入社した新人が毎日じゃがいもの皮ばかりむいている。
でも料理は一切教えてくれない。
夜こっそり皿に残っている先輩の作った料理を舐めながら味を覚えていく・・・。

20年近く前の会計事務所もそんな感じでした。
毎日毎日、じゃがいもではないですが、伝票入力ばかり。
ちょうど入社したのが2月という繁忙期だったせいか、
誰も何も教えてくれません。
大企業なら研修制度があって、インストラクターがついて・・・
となるのでしょうけど、まさに零細会計事務所なんて
そんな余裕もありません。


2、3日すると黒いカバンを渡されました。
「月次に行ってこい」という命令です。
カバンの中に領収書が入っていて、要するに月次をしながら集金も
して来いということなのです。

「月次とは何をやるのですか?」
何も知らない新人は正直に聞きました。
大原簿記学校では月次決算なんておしえてくれません。

「そんなことは自分で考えろ!」

多少頭にきましたが、そこで開き直って顧問先を回りました。

「今までの担当者は月次では何をやっていいたのですか?」

これも正直にすべての顧問先に聞いて回りました。
頼りない担当者だと思われたでしょうけど、
向こうも正直に聞いてくる担当者に
好感を持ってくれたのでしょうか。
今までの不満や疑問までもすべて言ってくれました。

所内に戻ってもそんな調子で聞きまくっていました。
教えてくれないのなら、こちらから聞くまでです。
皿を舐めて味を覚えろ!というのなら先輩に「味を」教えてもらうまでです。

机が隣の「二十歳の先輩」にところ構わず聞いていました。
税務知識では負けないのですが、所内の機械操作は分からないと
仕事になりません。
また、税務会計以外でも、社会保険や登記実務など
知らなければならないことはいくらでもあったのです。

ただその聞き方も、所内の古参の女性に聞こえるように、
大きな声で聞くのです。
そうすると、「それはこうなのよ」よく助け舟も出してくれました。


でもあるとき、二十歳の先輩に、こんなことを聞いてしまいました。
「ノートクって何?」

ノートクとは「源泉税の納期の特例」のことです。会計事務所ではまさに
そんなことは「あたり前田のクラッカー!」
(すいません。かなり古いギャグ!)
でも大原簿記学校に何年通っていてもそんな実務的なことは
教えてはくれません。

「そんなことも知らないの?」あのあきれた顔は忘れられません。

税理士先生となってしまったら聞けないことはたくさんでできてしまうのです。
学ぶ姿勢があれば、知らないことを羞じてはいけないと思うのです・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その19
2011.08.26

人生の再スタート


平成6年(1994年)2月。33歳の新人会計事務所職員として
再スタートを切りました。

回りの職員は20代の高卒の若い女性ばかり。
一回りも違う20歳くらいの女性もいて、オジサンは
もう完全に浮いていました・・・。

大企業から転職した者として、会計事務所という世界が
正直異様に思えました。
そこには、男女差別も年功序列もない平等の世界。

分かりやすく言えば、「職人の世界」なのです。
寿司屋の板前の修業をしたとしますね。
まさに新人職人が目の当たりにするような世界でした・・。

どうして職人かというと、皆若いながら、決算書まで作成し、
きちんと申告書まで作っているのです。
しかも、特に税理士試験の勉強をしてのでもないのに、
本当にできてしまうのです。
これには驚きました。

税理士試験勉強で頭が固くなっていた自分にとって非常に新鮮でした。
「これが会計事務所か・・・」

種明かしすると、当時どこの会計事務所でも採用していた
「オフコン」の力なのですね。
一式1000万円もするような高額の機械を導入し、
どこの事務所でも「コンピューター会計」を看板に掲げていました。
あの頃はまだまだコンピューターの黎明期でしたから。
しかし高いだけのことはあります。
その文明の利器を皆見事使いこなして、申告書まで作り上げていました。

また、33歳の新人が仕訳伝票100枚を30分もかけ苦労して入力していると
同僚達は、そんな伝票など10分もかけずあっという間に入力してしまいます。
電卓は簿記論で訓練したつもりでしたが、その数倍の速さで打っているのです。
まさに職人のワザがそこにありました・・・。

確かに税理士試験という専門知識はどこかで必要なはずです。
でもその以前での技術がまず必要なのですね・・・。


レストランの新米職人が、修行としてじゃがいもの皮むきばかりさせられる。
また、トンカツ屋に修行に入った新人がキャベツばかり切らされる。
そんなお話を聞いたことがありますか。

それに近いことが現実にすぐ起こりました。
2月に入った私はすぐ確定申告の準備をさせられました・・・。
ある日、ダンボールがどんと机の前に運ばれました。
そこにはあるラーメン屋さんの確定申告の資料が入っていました。
資料といっても一年分の領収書、納品書、請求書です。
しかも、ところどころラーメンの汁やラー油のしみまでにじんだ
ぐしゃぐしゃの領収書でした・・・。


その領収書を一枚一枚伸ばしながら、深夜まで格闘している自分がいました。

「こんな仕事は大卒の男がやる仕事か・・・」

税理士試験で勉強していた会計原則とはまったく関係のない
現実の経理がそこにありました。

あの惨めな気持ち忘れられませんが、
厳しい「職人としての」修行がその日からスタートしたのでした・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その18
2011.08.25

ついに合格発表


あっという間に12月になっていました。
月末に国税庁から「お手紙」が来ました。

なんと!「法人税法合格」でした・・・。
気持ち的には、相続税法と財務諸表論も合格していて欲しかったのですが
これはこれで、試験の手ごたえから覚悟はできていました。

結果的に簿記論を捨て、法人税法に変えて正解だったのです。
今思えば、ここで合格科目、しかも最難関の法人税法を一回で受かったので
税理士になれたかなと思っています。
一年専念して勉強して、もし結果がでていなかったら,
ショックが大きすぎてどうなっていたか。
脱サラして崖から突き落とされたところ、なんとかしがみついて
奈落のそこに落とされずにすんだような気持ちでした。

何より、
「これで会計事務所に就職できる!」
その安心感、喜びの方が大きかったかもしれません。
科目合格したことで、堂々と履歴書に書けるのです。
しかも、脱サラしての1年半で猛勉強したおかげで、
簿記論、財務諸表論だけでなく、国税三法まで勉強し
試験に必要な知識もひとおりマスターした自信もありました。

すぐ就職活動にはいりましたが、もう資産税中心になんて言ってはられません。
「もうどこでもいいから会計事務所に入ろう!」
そんな気持ちでした。

一番最初に内定をもらった事務所にすぐ決めました。
職員5人ほどの小さな事務所でした。
会計事務所に入れたことで、税理士になる夢が一歩近づいた感じがしました。


ただ脱サラのお話をしていながら、またサラリーマンに戻りましたね。
読んでいる方から、その点突っ込まれるかもしれません。
そのとき、どうしてそれほどまで喜んだか、この「税理士法」という法律を
解説しておかなければなりませんね。

実は、税理士になるには、「経理の実務経験が2年以上」必要なのです。

だから、最低2年間は、どこかの会計事務所などで経理実務に
従事しなければならないのです。
でもこの法律はおかしいと思いませんか。
私のように30過ぎて違う業界から、この道に入ろうとした人には、
強烈に不利なのです。
経理実務を学びたいのに、その経験がないからといって
その夏に50社も落とされたのはアップしたとおりです。

ということは、試験に仮に合格していても税理士になれないのです。
警備員を続けながら試験を受ける作戦もあったかもしれません。
でもそれでは税理士になれないのです。

よく警備員をやりながら司法試験を受ける人もいますね。
そういう人は合格しても弁護士になれるのです。
でも税理士の世界は違うのです。

もっと多くの経験を積んだ方々にこの税理士業界に入っていただいても
いいと思うのです。
例えば銀行や保険会社、また不動産会社にいらした方がその経験を生かして
税理士になる道があってもいいのではないでしょうか。

この点は国税庁長官に私は「不服申し立て」をしたいと常に思っています・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その17
2011.08.24

人生のどん底


会計事務所の就職をいったんあきらめ、勉強時間を確保するため、
12月の合格発表まで警備会社で働くことにしました。

当時、大原簿記学校にT先生という所得税法の名物講師がいました。
その先生の講義をどうしても受けたかったのです。

週4日だけ働き、残りの3日間はその先生の講義を受ける
かなりハードな毎日になりました。


T先生はさすが、カリスマ講師といわれただけのことがあります。
その先生に税法の考え方から教わったと思います。

「これが税法の世界か・・・」

ますます税金の勉強が好きになっていくのが自分でも分かりました。
20年近く経った今でも、税法解釈で迷った時は
「T先生ならどう考えるだろう?」
よく思います。


しかし、勉強することはそれで良かったのですが、一方で
働きながらの受験勉強は確かに大変でした。
それまで、ただ勉強していたら良かった天国の世界とは
180度異なりました。


警備会社での仕事とは、大型スーパーの駐車場の交通誘導でした。
工事現場でよく見るアレですね。
でも一日中立ちっぱなしのため、夜は疲れて何もできず、
なかなか勉強が進まず悩みました。

それで、税法の理論のカードを縮小して胸ポケットに入れ、
警備の仕事中にも勉強することにしました。

ただ警備の仕事の何が辛いかというと、雨でもカッパを着て、
立って仕事しなければならないのです。
大雨の日よく思いました。

「これで合格していなければただの警備員か・・・」

心が折れそうな時でした。
バブリーな証券マンから税理士へと夢をかなえるための脱サラでした。
でもそこに、合格もしていない、ただの警備員となった自分がいました・・・。

その時、空調の効いた自習室でぬくぬく勉強しているライバル達の顔が
浮かびました。

「負けたくない・・・」

大雨の日に、ずぶぬれになりながら理論を覚えた経験がある受験生は
あまりいないでしょう。
人通りもまばらな広い駐車場で、大声を出して理論を暗記している受験生が
そこにいました・・・。

「絶対に受かってやる!」

その願いが信念に変わった時でした・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その16
2011.08.23

10年ぶりの就職活動


現在大震災の影響で仕事を必死になって探している方も多いでしょう。
「復興支援」のために当時のことを赤裸々に書いてみましょう。
がんばれ!被災者!がんばれ!受験生!!

履歴書は20、30枚書いたでしょうか。
ということはアプローチした会計事務所の数も
50件は下らないでしょう。

しかし、所長面接までたどり着いても、
「野村證券ではいくらもらっていたの?」
必ず聞かれます。
「ウチではそんなに出せませんよ。」
それが断り文句でした。

「どうして野村證券やめてこの業界に入ろうと思うの?」
もうそこから説教まで始める先生もいました。

でも、いろいろな会計事務所を「裏側から」見られたのも
またその後ずいぶん役に立ったと思います。
「ウチの事務所ではこういう風にやっている・・・」
そんなノウハウもずいぶん聞けましたしね。
なかなかそんな経験はできないはずですから。


ある資産税の大事務所の先生との面接で、ズバリ言われました。

「キミをぜひ欲しい。でも税理士試験は難しいし、ウチの仕事は
キツイから多分税理士になれないよ。それでもいいかい?」

本当に自分の気持ちを見透かされたようでした。
仕事はしたかったけど、やはり税理士になる夢はあきらめられないですからね。

ここは丁重にお断りしました。
でも内緒ですが、その事務所はその後大発展し、
今では東京で5本の指に入る大税理士法人になりましたね。
もし入っていれば、今頃大番頭くらいにはなっていたかと・・・。


でもこのときイヤなくらい思い知らされていました。
脱サラするということは、それまでのキャリアをすべて捨てることです。
それからは、どんな大学出てようが、どんな会社勤めていたかなんて
ある意味関係ないのです。

そのとき自分に何ができるか。
その会社にどんな貢献ができるか、まさにそう感じました。
特にこの業界では、経験もそうですが、試験に受かっていなければ
何も始まらないのですね。

「まだまだ自分には力不足だ。」

そう感じた私は、とりあえずアルバイトをしながら勉強を続け
12月の発表まで待つことにしました。
ただその後、思いがけず「人生のどん底」を、味わうことなります・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その15
2011.08.19

会計業界の『強烈な』洗礼


Tシャツジーパン姿からリクルートスーツに着替え、大量の履歴書を作り、
この8月の時期に行われる、専門学校主催の就職説明会に
意気揚々と出かけてみました。

ターゲットは、当時攻勢を極めていた「バブリーな」大会計事務所。
バブルの頃、資産税対策専門と称して、都心にはたくさんありました。

「元野村證券を武器に、資産税専門の事務所なら入れてくれるだろう。」

本当にそう思っていましたし、当時はそんなことを専門的に
やってみたかったのです。


しかし、出席してみると若い人ばかりです。
そのなかで32歳の「オジサン」は完全に浮いていました・・。
しかも、若い人では3科目、4科目合格しているものも多いのです。

その数年くらい前まで野村證券で「リクルーター」として、
22、23歳の学生さんと接していたのに、その同年代の学生さん達と
一緒に面接を受けている自分が不思議でした・・・。
リクルーターとして、採用ポイントはだいたい分かっていましたし、
学生さんと接してものの5分話したら、その学生のレベルが分かるくらい
大量の学生に会っていました・・・。
今では時効?だからいいますが、リクルーター仲間で「撃墜王」と
呼ばれたくらい、多くの学生を面接で落としていました・・・。


その昔の「敵討ち」ではないでしょうが、その私が本当に「撃墜」され
続けてしまいました。

科目合格もしていない32歳のオジサンということで、面接会場で、
いきなりその場で履歴書を突っ返されたことも何度かありました・・・。

「未公開企業の株価算定は得意です・・・」

そんなことを偉そうに言っても誰も聞いてくれません。
年齢と未経験、科目合格していないところをどこもついてきました・・・。

「そんなバカな・・・」

やはり、業界の常識を知らないウブな私でした。

「32歳」、「科目合格なし」、「経理経験なし」、「扶養家族3人」

業界人ならすぐ分かるでしょう。当時はまさに、「四重苦」だったのです。


しかも、実務経験も何もない「プライド」ばかり強い
上場企業出身者なんて、会計事務所では使いにくいはずです。
それは、今ならそう思うことですが、当時は何も分からなかったのです・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その14
2011.08.18

脱サラの『強烈な』洗礼


税理士受験生としての2回目の夏が終わりました。
初日の財表の理論の山が大ハズレのショックが響いて
法人税と相続税を受けても、正直あまり手ごたえは
感じられませんでした。

「税理士試験というのはこんな難しいのか」
正直そう思いましたが、1年ほどの間で強烈に4科目を勉強し、
もしあと1年くらい時間があれば目処が立つのではないかという
「甘い、うぬぼれにも近い」自信は持っていました。

しかし、ここで方針転換を余儀なくさせられました。
当初、2年くらいは働かないで受験勉強に専念しようかと
思ってはいましたが、やはり働くことを決意したのですね。

2年くらい働かないで生活できるくらい蓄えはあったつもりですが
貯金を切りくずしているだけの生活はやはりきついものです。

それと働かないで勉強だけしている生活は、それはそれで楽しかったのですが
やはり二人の子を持つ「一家の大黒柱」としての責任もあります。

働かず勉強だけしているという「ゆるゆる」の生活、
それと、アップしたようにこれも「ゆるゆる」の専門学校の世界。
このまま何年もここにいたら、「時差ぼけ」してしまうような
恐怖感さえありました。
「一日でも早く社会復帰したい。」
いつしかそう考えるようになっていました。


何より、家族のこの一言が決心させました。

「来年上の子が小学校だけど、PTAの会合で父親の職業聞かれたら
何ていうの?」

もう言葉をなくしました・・・。

「働きながら税理士を目指そう。」
大幅な路線変更です。

「あれだけ証券会社でやってきたから、どこでも採用してくれるさ」
そう甘く考えていた私は、この業界からの強烈な洗礼が待ち受けていました・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その13
2011.08.17

ホップ ステップ ハイジャンプ!


入学して4ヶ月くらいは本当にあっという間でした。
税理士の専門学校は、当時

基礎期 9月から12月の4ヶ月 
錬成期 1月から 4月の4ヶ月
直前期 5月から 7月の3ヶ月 

3クールに分けられていました。
基礎期は名前の通り、徹底的に基礎を叩き込まれます。
そういう意味であまりキツクはないのです。
何となく終わってしまったというのが実感でした。
でも、本当の厳しさは年明けの1月以降なのですね。

12月末にまず最初の関門、簿記論の合格発表がありました。
このときまでに、正直覚悟はしていました。
2ヶ月くらい真面目に勉強しても
簡単に受かるような試験ではないことは
専門学校に通い出して分かっていました。
不合格の通知を受け取って、講師に相談すると、
「やはり簿記論、財務諸表論は基本だから、今年はそれを中心にしたら」
そう言われてしまいました。

講師の目から見たら、「財務諸表論」、「法人税法」、「相続税法」なんて
無理な科目を選択している生徒は信じられなかったのでしょう。
でもこのときの私はまた講師の助言を無視しました。

このときは、税法を勉強しているのが楽しかった。
自分の進むべき道を発見した喜びというのでしょうか。
わざわざ脱サラしてまで飛び込んだ世界でしたが、
どうやらその水は私に合っているようでした。


簿記論の不合格に落胆している間もなく、1月からまた猛勉強の日々が
スタートしました。
でも、税理士試験の本当のキツサは、5月からの直前期なのですね。
三段跳びの「ホップ ステップ ジャンプ」がありますね。
最後の直前期はまさに、「ハイジャンプ」なのです。

この厳しい一年を通じて、税理士試験のなんたるかを身をもって学びました。
この3科目を勉強しきったことである意味自信にもなったのです。

でも何度もいいますが、毎日夢ばかり見ていた楽しかった日々です。

自分の夢をかなえるのが『税』だと発見したからなのです・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その12
2011.08.16

税理士予備軍の生態系


20年前の税理士の専門学校の様子はどうであったか。
面白いのでご紹介しましょう。

税理士の専門学校はお金さえ出せば誰でも入学できますね。
入学試験もないのですから。
医者や弁護士になるには、医学部や法学部に進学する必要がありますが、
税理士は、別に商学部に入らなくて良い訳です。そういう意味で、
当時、専門学校には様々な「人種」が生息していました。

区分けすると4区分くらいに分けられました。
(これは私の独断と偏見の『内緒話』です)

第1種 「お気軽学生さん派」
第2種 「ゆるゆる専念派」
第3種 「有閑マダム派」
第4種 「脱サラおじさん派」


第1種 「お気軽学生さん派」は、これは今もいると思いますが、
いわゆる「ダブル・スクール」ですね。現在は就職が厳しいので、
学校とは別に専門学校に通う学生が多いみたいですね。

当時も確かにいましたが、学生生活も謳歌した上で、
結構のんびりしていました。
在学中に5科目すべて取ってしまうような元気のある学生さんは
見たことはなかったですね。
ほとんどが中途半端に終わって、最後は就職活動で消えて
行ったような気がします。


第2種 「ゆるゆる専念派」 は「お気軽学生さん派」から進化した人が
多くいたような気がします。
簿記、財表あたり受かっていて、そのまま就職せず専念してでも
税理士を目指すような人たちです。

ただ、それほど真剣にはやっていなくて、定例試験(月に一回の模擬試験)のあとの
飲み会を仕切っていたりするような、ゆるゆるの人が多かったと思います。
あまり大きな声ではいえませんが、税理士の二世も多かったですね。
3年くらい平気で働かずに勉強ばかりしているのです。
当時はバブル直後でしたので、ブランド物のバックなんか持っているのは
たいていは2世税理士でした・・・。(内緒)

第3種 「有閑マダム派」も当時多かったですね。
バブル景気の余韻から、パートに出る必要がない暇そうな「有閑マダム」が
多かったですね。
結構国立大学出ているような人も多く、知的雰囲気を楽しんでいたような気が
します。
こういう方々は税理士になりたい訳でもなさそうで、昼休みになると友達達と
弁当を広げながら平気で2時間くらい世間話をしている。
でも、そのヤル気のなさから、たいていは春先くらいで
いなくなってしまいましたね。

第4種 「脱サラおじさん派」はこれは少数派でした。
私もこの派閥に属していたのですけど、正直なかなか馴染めなかった。
私のように「何が何でも受かってやるぞ!」というようは「ぎらぎらした人」も
いましたが、
何となく会社を辞めたような方が、何となく簿記学校に来ている感じで・・・。


「なんだか変なところに入ってしまったな。」
というのが正直なところです。

でもこういう人種の中から、運よく受かって今税理士として活躍している人も
いるのも事実です・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その11
2011.08.15

猛勉強の日々


月、木が「財務諸表論」
火、金が「法人税法」
水、土が「相続税法」
午前中3時間の授業のあと、ひたすら専門学校の自習室に篭もり、
午後9時半の閉館までの復習の日々。
朝5時から起きて、夜の12時頃寝るまで、ご飯を食べる以外はほとんど
勉強していました。もちろん行き帰りの電車の中も。
日曜日も当然ですが早朝から専門学校に。

あれほど勉強した日々はないですね。
よく思うのですが、高校時代にあれだけ真剣に勉強していたら
東大くらい楽に受かっていたと・・・?

でも不思議と授業がものすごく面白かった。
というのも、20年前の専門学校には、いわゆる「名物講師」がたくさんいたからです。
立て板に水が流れるごとく名調子。本当に授業聞いていて飽きないのです。
それでいて生徒をヤル気にさせる。

専門学校もそれをある程度売りにしているので、今と違って自由にやらせていました。
今ではビデオやWeb授業が主体となっているらしく、完全マニュアル授業で
そんな名物授業や名物講師はなくなってしまったらしいですが・・・。


特に「相続税法」の授業が本当に面白かった。
バブル時代、相続税が払えなくなる「相続破産」までよく言われた
時代です。
バブル絶頂の証券会社で、自ら「相続対策商品」を企画立案していた
ものとして、非常に新鮮でした。

「実は相続税はそうなのか・・・」
いかに自分の無知を知らされたようで、
こんな相続そのもの知らないものが粋がって、「対策商品」を考えていたとは
正直恥ずかしくなるくらい・・・。

でも相続税とは、人の死亡が前提ですよね。
毎回授業で、「このAさんが死亡した場合の相続税は・・・・」
そればかりですからね。
毎回、「火曜サスペンス劇場」をみているようなものです。
必ず死人がでてくる。しかも前妻の子や愛人まで登場して。
だから、本当に楽しくて仕方がなかった。
こんな学問は外にないですね。

それと相続税を勉強する第一段階として、「民法」を勉強するのですね。
これは、民法により、相続人や相続分を特定するなど
まさに「基本のキ」です。
かなり突っ込んだ内容で徹底的に勉強したのですが、
これは税理士となった今でも本当に役に立っています。
20年経った今でも忘れていません。
それだけでも相続税法を選択して良かったと心から思います・・・。

(萬田久子さんのような「前妻の子、愛人の子が登場する」相続は
実際に結構あるのですから・・・)



夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その10
2011.08.12

大原簿記学校入学


平成4年(1992年)9月、当時税理士受験界では有名な
水道橋の「大原簿記学校税理士本科」に入学します。
その時、31歳。バブル絶頂の証券マンから無職の学生へと逆戻り
まさに人生の再スタートでした。

入学式こそなかったものの、「学割定期」をもらって、久しぶりの学生気分を
味わうことができました。
当時、税理士の本科生は3科目を選択することができました。
1年間専念して税理士を初めて目指す人に対して、
通常「簿記論」、「財務諸表論」、「相続税法」
の三科目の選択を勧めていたと思います。

「簿記論」、「財務諸表論」は会計学の基礎として当然ですが、
なぜ「相続税法」かは、会計学の知識がいらない税法科目ということで
専門学校としては教えやすかったのでしょう。

当然私も、その三科目のセットを勧められましたが、
先日来申し上げている通り、どうしても国税三法を勉強したい私は、
天邪鬼にも、簿記論の変わりに、なんと「法人税法」を選択しました。
簿記論が万が一にも合格していたらという、「甘い期待」から
どうしても税法科目を勉強しておきたかったのです。

よって、選択科目は
「財務諸表論」、「相続税法」、「法人税法」
究極のセット科目となりました。
この三科目を同時に勉強したことのある方は多分少ないでしょう。
いや多分いないかもしれません。

もし、回りに税理士受験生や税理士の方がいらしたら聞いてみてください。
「こんな科目選択する人は信じられない!」そういうでしょうね。

でもヤル気満々の私は、絶対にその三科目を一発で合格するつもりでいました。

この科目選択は、結果的にどうであったかは、当然このブログで発表しますが、
簿記論の変わりに法人税法を選択して本当に良かったと思っています。
このおかげで私は税理士になれたとさえ思っております。
要するに専門学校の講師の言葉なんか鵜呑みにしないことですね。


ヤル気満々の私は、毎朝5時に起き、7時に専門学校の開門と同時に、
教室の一番前の指定席を、「マイ・ザブトン」を敷いて陣取っていました。

大原簿記学校で伝説となった「ザブトン人」
炎の受験生活スタートです・・・。



夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その9
2011.08.11

科目選択の本音


本当に「夢を持って」この税理士試験にチャレンジしようとする人たちのために
この科目選択について熱く語ってみましょう。


さて税法科目は3科目受からなければならないと申し上げましたが
そのうち、「所得税法」または「法人税法」のどちらかは必修として選択しなければ
ならないのですね。(試験科目の詳細については こちら

会計事務所は法人のお客さんが基本ですから、当然ですが法人税法を
選択する人が多いようです。
税理士として法人の顧問を持つと、5年に一回くらいは法人税の調査が
必ずありますからね。
やはり法人税法を知らないと本当の意味で「飯の種」にありつかないのです。
ただ法人税法は一番ボリュームのある科目です。
これに苦労する受験生も多いのですね。

でも、所得税法を勉強しないでよいかというと、個人の確定申告は
毎年3月に必ずあります。法人のお客さんにはオーナーがいて、
そういう方々は不動産などをお持ちの場合が多くて、
確定申告は必ずと言っていいほど必要なのです。
ですから、実務についたら、やはり法人税法と所得税法は知らなければ
始まらないのです。
でも所得税法の試験のボリュームも大変な量なので、それを避ける受験生も多く、
実際に所得税法を勉強しないで税理士になった人も多いのです。
そういう先生は確定申告のシーズンは困るでしょうね。
「知ったかぶりの顔」で仕事を受けているからなのです。(内緒)

またご高齢の顧問先を持つと必ず相続のご依頼、ご相談があることも多いです。
そうなると相続税法も知らないといけない・・・。
ただ実務的には法人税法とともに消費税法も勉強すべきだとも本当に思います。

ただ今の受験生像としては、法人税法は勉強するももの、あとは消費税法と
あと残りの一科目はボリュームの軽い税法を選択してしまうイメージでしょうか。
結果的に所得税法と相続税法を勉強しないまま税理士になってしまう・・・。

それでも試験に合格すればよいのでしょうか。
どうもこの試験制度はやはりおかしいと思っております。


私は医師の国家試験制度は知りません。でもあえて喩えて言えば、
医師になるには、「内科」と「外科」と「皮膚科」の試験のうち一科目を
合格しなければならないとします。

「皮膚科」の試験科目を合格した医師が、「内科クリニック」を開業したようなものです・・・。
水虫の治療の得意な方が、風邪の処方箋を書いている・・・。

ただ医者はこのように自ら「・・科」と専門分野を特定しますが、
税理士はすべて何でもできてしまう「総合病院?」ですね。
やはりおかしいと思いませんか。
(言い過ぎかもしれませんが、この業界の向上のために反論はいつでもお受けします)


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その8
2011.08.10

税理士試験の科目選択


税理士受験生が一番悩むのは科目選択ですね。
それは税理士試験は科目合格制度が採用されているからなのです。
弁護士試験や公認会計士試験は基本的には一度に何科目を受験するのに
対して、税理士試験は一科目づつ、ある意味自由に受験できます。
逆に、その受験しやすさが難易度を高めているともいえますが。

会計科目の2科目(簿記論、財務諸表論)と
税法科目の3科目(法人税、所得税等)をクリアしなければならないのですね。
その全部で5科目をどういう順序でクリアするかなのですが、
専門学校ではどこでも、まず会計科目を勉強することから勧めています。
それを突破してから税法科目に進みなさいと。

受験ガイダンスで皆一様にそういわれました。
ただヤル気満々の私は、全部の専門学校で聞いていました。

(吉田)「簿記論は今回受験してみて自分なりに手ごたえはあったのですが・・・」

「そうですか、でも万が一ダメかもしれないので、もう一度基本から
やっておいた方が・・・」

(吉田)「私には時間がないので次の税法科目にぜひ進みたいのです」

「でも受かっていないことには仕方がないし・・・」

あたかも今回の簿記論が不合格であるかのような口ぶりです。
このあたりはいささか閉口しました。
こちらは、まさに夢を持って脱サラしてまでこの試験に賭けているのです。


さらにその受験相談で決定的な問題が出てきます。

(吉田)「私はどうしても法人税、所得税、相続税のいわゆる国税三法を受験したいのです。」

これは真顔で言いました。すると、専門学校の講師は、

「国税三法?そんなこと夢見たいなこと言っていたら10年経っても受からないですよ。
うちの学校では、会計科目2科目とせいぜい固定資産税か酒税法あたりを勧めています。」


「酒税法? なんですか?その科目は?実務にはまったく関係ないと聞いています。
私は税理士試験に合格したいのはもちろんですが税理士としてその後も活躍したいのです。
そのためには国税くらいキチンと勉強しておかないとマズイのではないですか?」


このときのあきれたような講師の顔今でもはっきり覚えています。
20代の若い、あきらかに税理士ではなさそうな専門学校の専任講師でした。
年の若い割に高そうなダブルのスーツを着て妙に偉ぶっていました。
でもその態度に腹が立ってきて、そのうち私はその講師と熱く口論し出してしまいました・・・。


でも現役の税理士として今思うのですが、国税三法(実際には消費税も入れて四法)くらい
勉強しておいて損はないと断言できますね。
そのため2、3年遠回りしてでもいいのではないのでしょうか!


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その7
2011.08.09

税理士試験必勝法


専門学校の授業はほとんどが9月から開始します。
それで8月の本試験からそれまでの間は、これまた必死になって
専門学校回りをしました。
当時水道橋から神保町あたりに4、5校の専門学校はあったでしょうか。
そのすべての入学ガイダンスにでて、これから「自分の人生をかける」専門学校を
真剣に選んでいました。

でもここらあたりから、今更ながら
「税理士試験とは」
「税理士試験をいかに合格するか」
これを必死に考えるようになりました。

そんな工夫から後日ですが、
「税理士試験本」が書けるようになったのですね。

税理士試験.jpg

自慢ではないですが、税理士試験の本を2冊も書いたことある税理士は
私くらいでしょうかね・・・。
(そのノウハウはこれから小出しにしていきます)


その一方で、ある秘密訓練を開始していました。
それは、「電卓のブラインドタッチ」の練習です。
それまで人差し指一本で打っていましたが
これは当時、かなりコンプレックスに感じていたことなのです。

脱サラして、昼間の自習室に潜り込んだ時のことを
今でもハッキリ覚えています。
皆実に軽やかに、まるで「音楽を奏でるように」電卓を叩いていたのです。
これは正直驚きでした。
しかも目は問題用紙に釘付けで、電卓なんて見ていません。
「これでは勝てない」
そうまで思いました。

パソコンがかなり普及して、ブラインドタッチで入力できる人が
ずいぶん増えましたね。
あれと同じように、電卓を見ないで叩くのです。

どうやるかというと、
1、4、7は人差し指
2、5、8は中指
3、6、9は薬指で 叩くのです。
ただ、0は親指派(カシオの電卓)と人差し指派(シャープの電卓)に
分かれます。(私はカシオ派です)

ブラインドタッチの教則本を買い込んで、必死になって練習しました。
生まれて初めて指の筋肉痛も味わいましたね、

おかげで、それまで「人差し指一本でポンポン」素人っぽく打っていたのが
ほぼ一ヶ月で、あこがれのブラインドタッチができるようになったのです・・・。

でも人によってはあえてサウスポーで打つ練習する人までもいました。
そうすると右手で同時に文字も書けて絶対に有利なのです。
実は、こういう言い方をアップすると波紋が起きるかもしれませんが
簿記論なんてある意味、「電卓の早叩き競争」なのですね。(内緒)


さて、肝心の専門学校選びなのですが、またまたここで波乱が起きます・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その6
2011.08.08

簿記論受験終了


本試験までの2ヶ月間はとにかく必死でした。
もうがむしゃらに簿記を勉強していました。

ただ、今まで勉強したくてもできなかったことが
思う存分できる訳で、嬉々として取り組んでいました。


税理士試験対策を行っている専門学校では、
どこでも通常5月頃から「本試験対策」として、
試験レベルの難易度の高い問題を解くようになります。

退職してすぐ、その授業に出始めましたが、正直まったくついていけなかった。
ほとんど勉強していなかったのはアップしていたとおりだからです。


それでも何としても合格したい私は、担当の簿記論の講師に無理言って、
秘策を聞きだしました。
その先生は、基本問題集を最低3回は解くように指示されました。

「大丈夫です。これ3回解いただけで受かった人がいますから」

まだまだ受験ビギナーだった私はこれを真に受けて、本試験までの2ヶ月間、
この基本問題集をひたすら解きましたね。

「会社辞めてまで取り組んでいるのだから受かるだろう。」

合格したい気持ちは誰にも負けないほど強かったものの、
やはりこの頃は税理士試験を多少甘く見ていたのかもしれません。


そうこうしてすぐ8月の本試験。
2ヶ月間の必死の努力の甲斐があってか、不思議と何となく手ごたえがあったのです。

その後何度も苦労させられた税理士試験。
「できた!できた!」
と騒いでいる時こそ、不合格の絶望感もイヤというほど味わいました・・・。

でもこのときは

「ひょっとして逆転ホームランか・・・」
「あと四科目!」

合格した自分の夢ばかり見ていました・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その5
2011.08.05

スタートした時のレベル


これから税理士試験を目指そうとされる方がこのブログを
読まれるかもしれませんね。

正直に自分の当時のレベルを書いておきましょう。
ここは一番知りたいところでしょうから。
ここでミエをはっても仕方がないですし・・・。

その年、会社に勤めながら、確かに簿記論を勉強し出していました。
その選択していた授業が、「土曜日のロングクラス」。
これは会社に働きながら受かろう!というクラスで
通常週に2回ある授業を一日で消化する、かなりヘビーな内容でした。

しかし土曜日は、前の日の金曜日に飲むことが多かったのです。(言い訳)
だいたい2、3件飲んで帰ると2時か3時!?
よって土曜日に簿記学校行っても、もう出席しているだけ満足して
だいたい寝てばかりいました・・・。
(これは正直なお話です)

あとバブルの当時、平日は、深夜10時か11時までは働いていました。
当然ながら、そこからまた飲みにいくことも・・・。
ということは平日の勉強はまったくできません。(言い訳)

では日曜に勉強していたかというと、疲れて寝ていたり、
たまにお付き合いの下手なゴルフ・・・。(また言い訳)

ということは、バブル時代を謳歌していた私は
実は簿記論を真面目に勉強してはいなかったのですね。
会社の研修で簿記検定2級を取らされたのは、前にアップしたとおり
ですが、事実それほどのレベルではなかったのです。

よく聞かれるのが
「野村證券に勤めながら税理士試験の勉強をしていたのですか?」

正直言ってあの頃、証券会社に勤めながら勉強なんかできる訳ないのです。
会社退職してから、つまりゼロから始めたのが事実です。
その時の年齢は31歳!


どうですか?安心しましたか?
もう辞表叩きつけて税理士試験受けたくなりましたか?


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その4
2011.08.04

ザブトンの人


脱サラして一ヶ月くらいはあっという間でした。
ようやく簿記学校に毎日通いだしましたが、
何が苦痛かというと一日中座って勉強していることでした。

勉強すること自体は自分から望んでいたのでそれは良かったのですが
じっと座っていることは正直キツかったのです。

それまで証券マンとして一日中飛び回っていましたから
昼過ぎくらいになるとお尻が痛くなってきます。
やむなく家からザブトンをもってきて敷いていました。

簿記学校には不思議とザブトンを持ってくる人は私しかいなく、
すぐ「ザブトンの人」として、名が学校中に知れ渡っていました。

早朝7時に開門と同時に、自習室の私の「指定席」を陣取ります。
夜の9時半頃に守衛さんが見回ってきて追い出されるまで
そこで一日中電卓を叩いているのです。

実はそれまで、バブル全盛の証券マンとして、毎日のように
昼は日本橋のデパートでグルメランチを食べ、
夜は銀座でハシゴしていました。

先日アップしたように高級賃貸マンションに住み、
ボーナスを入れたら4ケタはもらっていたかもしれません。(内緒)


一般論としては当時は人のうらやむような生活だったかもしれませんね。
でも、そんな生活をすべて捨て、180度変わった環境で
一から勉強し直す覚悟でした。

本当にそれまで、証券マンとして、白いカッターシャツを着て、
仕立ての良いスーツをまとっていたのに、
きたないTシャツにジーパン姿で、一日中電卓と格闘していました。


そんな生活でも、自分のやりたかったことを、早朝から深夜までできることで
まったく苦痛にも思わなかったのです。


「税理士試験に合格したら・・・」

「税理士になったら・・・」

夢を見る楽しさ、喜びをここで再発見したのです。


一度しかない人生。
自分の好きなことをやりたいと本当に思いませんか・・・。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その3
2011.08.03

脱サラの洗礼


会社を退職した人がまず何を感じるか正直に書いてみましょう。
これは本当に会社を辞めた人ではないと分からない気持ちでしょう。

まず、何といっても、日中ジーパン姿でいることが
最初異常に恥ずかしかった。

今から20年も前のお話です。
あの頃はサラリーマンというのは、ネクタイしてスーツ姿が定番の
まさにユニフォームでした。

今でこそ、クールビズや、エコでノータイ、ノージャケットが当たり前、
IT関係など、最初からスーツも着ないでジーパンで働く会社も多いですね。
あの頃のサラリーマン、特に金融機関は、ダークグレイか濃紺のスーツに
地味なネクタイがお決まり。

それが急にTシャツジーパン姿のギャップに苦しみましたね。
本人は、開き直っているくらいでいいのですが、やはり世間の目があります。
それを一番感じたのは家族でしょう。

そのころは子供が幼稚園に通い出していましたから、
その幼稚園関係の知り合いも、隣近所にたくさんいました。

それが平日昼間にでも、それこそジーパン姿でうろうろしていたら、
「〇〇ちゃんのお父さんはリストラにでもあったのでは・・・」
すぐ噂されてしまいますからね。


それで、ご近所の方々に会わないように、やむなく朝は6時頃から家を出て、
深夜10時頃にこそこそ帰ってくる行動パターンとしました。
日中どこに行くかというと、当然ですが、簿記学校です。
朝の7時開門と同時に、自習室に篭もり、授業があればそれに出席し、
終わるとすぐ自習室に直行して、ひたすら簿記の勉強をしていました。

実は、授業中にスーツ姿の人も何人も見ました。
朝の授業ですから、多分仕事していない人でしょう。
思い切って声をかけてみるとやはり、
「世間体があるので、朝必ずスーツ姿であたかも出勤するように・・」
といっていましたね。

その気持ちよく分かります・・・。


でも、そんな格好を気にしているくらいなら脱サラなんか
しない方がいいのです。
ただ今ならどんな格好していても変には思われないですから大丈夫でしょうけど・・。

しかし、もっともっと厳しい脱サラの洗礼をのちのち受けることになりました・・・。



夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その2
2011.08.02

いよいよ炎の受験生編スタート


さて、時計の針を20年位戻しましょうか。
平成4年(1994年)5月。私は野村證券を退職しました。
辞表を人事部長に叩きつけたお話は、「炎の脱サラ編」でアップした
とおりです。

退職すると分かってからの数日間は実に慌しいものでした。
連日の送別会。
「どうして辞めるの?」
皆に聞かれました。

「辞めて税理士になるのさ。そのためしばらく働かないで簿記学校に通うのさ・・・」

まだバブル景気の余韻があった頃です。
高額で外資系証券にヘットハンティングされる同僚も多い中、
無職になってまで税理士を目指す者を、皆好奇心の目で見ていました。

ちょうど当時流行ったテレビドラマの影響でしょう。
DINKS(Duble Income No Kids)という言葉が、よく言われていました。
バブルという好景気を子供作らず共働きで生活を楽しもう!
そんな時代背景でした。

「DINKSどころか No Income Two Kids さ!」
そう笑って答えていました。


「働きながら税理士を目指したら」

そういってくれる友人も何人かいましたが、
あの頃は、自分の夢のために第一歩が踏み出せたことで
意気揚々としていました。
とにかくあの頃は一刻も早く税理士になりたかった。

「証券業界から税理士業界に殴り込みだ! 税理士業界に一泡吹かせてやる!!」
自信満々でそれくらい怖いものがなかったのです・・・。


でも浮かれている私に、「頭からバケツで水をかぶせるような」大事件が
すぐ起きました。
その晩、野村證券から電話がかかってきました。

「キミの住んでいるマンションは会社の借り上げ社宅だから、即刻退去してくれ!」

「えっ・・・・?」

実は、お恥ずかしい話、まったく予想もしていなかったことでした。
当時駅近の家賃15万円の高級マンションに住んでいました。自己負担は1割ほど。
本当に景気が良かった時代ですね。

無職で無収入の人が高級賃貸マンションなんて借りられるはずがありません。

「今度の夏、税理士試験を受けてすぐ税理士になりますから・・・」

今だから言えますが、不動産屋にはハッタリのような大嘘をついて
再契約してもらいました・・・
退職金をはたいて敷金と礼金を差し入れた上、
その後無職ながら自腹の15万を毎月払わされるのは確かにきつかったですが、
脱サラの洗礼をうけたような出来事だったのです。

でも、まだまだそんなことは序の口のお話でした・・・。
これから波乱万丈の「炎の受験生編」スタートです!

※今日から税理士試験が開始されますね。
受験生の皆様頑張ってください。心よりエールを送ります。


夢をかなえるゼイ 炎の受験生編 その1
2011.08.01

夢をかなえるゼイ再スタートの理由


吉田事務所のホームページをリニューアルしてしばらくしてから
トップページに「夢をかなえるゼイ」のボタンをつけてみました。
過去のブログでアップしたものをすべて再編成してみたのです。

修正しながら、つい読み返していたら、あの頃の熱い気持ちを思い出して
しまいましたね。
手前味噌ながら、結構まとまっていると思いますので、ぜひ一度お読みください。


でも気がついたのですが、脱サラした経緯や、独立開業した苦労話は
これである程度お話できたと思うのですが、脱サラして税理士を目指した肝心の
「もっとも夢をみていた頃」が抜けているのに気がついたのです。

実は、明日から税理士試験なのですね。
受験会場にクーラーもなく、汗だくになって答案用紙に食らいついていたあの頃を
今でも忘れることはできません。

必死になって取り組んでいたあの頃、長く辛かった受験生時代。
でも今思い返せば、
「税理士になって・・・したい」
「税理士試験合格したら・・・」
と自分の夢を毎日追っかけていたのですね。

「3.11」以来、人生の生き方を問い直す人が増えてきたとよく報じられています。
「自分の人生って何だろう?」
「自分は何をしたかったのだろう?」
そう自問し悩んでいる人も、きっと今多いと思います。

被災者の方々の中では、自分の生まれ育った思い出深い家が流され、
かけがえのない家族も失い、本当に夢も希望もなくなった方もいらっしゃるはずです。

多分夢を見ることを忘れているのかもしれません。
夢を見ることのすばらしさ思い出して欲しい。
そしてそれが叶うことの喜びもぜひ味わって欲しいと
心から思います。
夢があるからこそ、希望が持てるはずだからです。


先日、ワールドカップで優勝した女子サッカーの沢選手が
実にいいこと言っていました。

「夢は見るものではなく叶えるもの」

夢を見るだけでなく叶える努力をすること、それを沢選手からも教わりましたね。

明日からの税理士試験にチャレンジされる方もいるのでしょう。
もっと多くの方が夢を持って税理士試験にチャレンジして欲しい。
日本復興のため、今こそ優秀な税理士がたくさん必要なのです。


日本人の多くの方に、忘れかけている夢を見つけて欲しいからこそ
もう一度「夢をかなえるゼイ」をこれからスタートしていきます。

私のブログをきかっけに、夢をもって税理士試験にチャレンジする人が
被災された方の中から一人でも出てきてくれたら望外の喜びとなるでしょう。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その23
2010.08.26

清水の舞台


脱サラしようと心には決めたものの
2日間眠れない日々が続きました。
「税理士試験受かるだろうか」
そんな心配と、
やはり野村證券を去る寂しさでした。
本当に高校生の頃から行きたいと思っていた会社です。

深夜まどろんでいると、夢を見ました。
修学旅行の時に行った清水寺でした。

清水の舞台.jpg

「清水の舞台から飛び降りた気持ちで・・・」
よく言いますよね。

そのときの夢は、まさに自分が清水の舞台から落ちてくような
感じでした。
「これが脱サラの気持ちか・・・」
これは絶対脱サラした人しか分からない感覚でしょうね。

今まで自分が立っていた場所が急になくなるのです。
安住の地が消滅し、そこから底なし沼のようにどこまでも
落ちてく感じです。

いささか恐ろしくなって目が覚めました。
そのときに目に入ったのは、まだ小さかった子供たちの寝顔でした。
ちょうどその頃、2DKの小さなアパートに住んでいたので
毎日親子四人、川の字になって寝ていたのです。

「子はかすがい理論」を私はよく言っていましたね。
子供達のために会社を辞めないで頑張ろうという理論。

でもこのときは逆でした。その可愛い寝顔を見ながら
「この家族のために死んでも税理士になってやろう!」
「清水の舞台から落ちても絶対這い上がってやる!」
そう心に決めたのでした。
そのまま机に向かい辞表を書いたのを覚えています。


月曜日の朝7時30分。
東京駅を通り越した私は、日本橋の本社前に立っていました。

「どうせ辞めるなら、辞表を人事部長に叩きつけて辞めよう!」
サラリーマンなら誰でもやりたいことですね。
それを最後にどうしてもやって、かっこよく辞めたかった。

ただサラリーマンとしての仁義もあります。
転勤拒否の非礼を何としても詫びなければならなかった。
それとその時の人事部長は、実は私が新人の時の研修課長で
まさに私に簿記研修をやってくれた恩人でもありました。
簿記会計の世界を教えてくれた恩人に
お礼も言わなければならなかったのです。

そのときにはもう迷いもなく、すっきりとした気持ちで
人事部のドアを勢いよく開けました。

「お早うございます!人事部長いらっしゃいますか!」

人生の新しい扉を、自ら開け放った瞬間でした・・・。


(炎の脱サラ編 おしまい)



夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その22
2010.08.25

脱サラ心理学


営業に戻るということは
またまた営業課長、支店長への出世コースへ戻ることになります。
ただそのときは、「呪縛が解けていて」あまり出世には興味が
なかったのです。
しかも5度目の転勤で正直会社に対して、嫌気も差していました。
人一倍「愛社精神」はあったつもりなのですが、それが「フラレタ」感じでした。

その時点では
「辞めて税理士になろう!」
もうすでに心は決まっていました。

一方で、転職しようなんていうことも、
まったく思わなかったのですね。
とにかく自分の夢のために突き進みたかった。

幸いなことに、蓄えが多少あったのです。
その蓄えで2年間くらいは遊んで?暮らせたかもしれません。
でも、自分の力がいかにないか思い知らされていたので
とにかく「原理原則」の勉強がしたかった。

本当に2年間くらい仕事しないで、大原簿記学校に通いつめて
何としても税理士という夢を実現させたかった。

よく聞かれるご質問なのですが、当時の野村證券の給料は
結構良かったのです。
(ブログでやはりその額はアップできません。)
同世代の倍は働いていたので、本当に倍くらいもらっていたのです。
しかも忙しすぎて使うヒマもなかったし・・・。
確かにカネのためだけなら、辞めないほうが良かったのです。
でも人生カネだけでもないのですね。
一度きりの人生。好きなことをやって行きたいですからね。


ただ、もちろん真先に奥さんに言いました。
「2年間だけ我慢してくれないか? 絶対税理士になるから・・・」

ここで「生活はどうするの?」
なんて反対されたら、多分諦めて新幹線に乗っていたでしょうね。
きっと今頃野村證券のどこかの地方支店で
ウロウロしていたかもしれません。
(多分支店長くらいにはなっていたかも・・・)

でも、思いがけず
「なら辞めたら・・・」
その一言で私の脱サラは決まりました。

それでも不安な私は、そのまま大原簿記学校に向かい、
親しい講師の先生に相談に行きました。
ここでも
「大丈夫ですよ。辞めるくらいの覚悟があれば絶対に受かりますよ・・・」
今思えば、かなり無責任なお答えでした。

残念ながら、その2年後には税理士にはなれなかったのですから・・・。

(いよいよ次回は最終回)


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その21
2010.08.24

いよいよクライマックス


いろいろ長々と脱サラ物語を書いてきましたが、
そろそろ終章(クライマックス)に近づいてきています。

転勤族というのは、ある日突然辞令がきますね。
実はそれがきっかけで脱サラにつながったのです。
このあたり企業倫理的に、ご批判があるところかもしれませんが、
正直に書いてみましょう。

会社によっては事前に異動の打診があるところもあるらしいですが
当時の野村證券はそんなに社員に対して親切ではありませんでした。
(今は知りませんが)

ただ、異動時期の数ヶ月前に、人事部の方と一度面接がありました。
要するに、「そろそろ本社に戻りたいか?」と聞きに来たのでしょう。
そのときは
「こんな面白い職場はない。自分にとって適職で
ぜひもう少しここで勉強させて欲しい。また必要にせまられて、
税理士試験の勉強をしているが、これもぜひ続けさせて欲しい」
と言ったと思います。

それと、ここ数日来アップしている、「企業内税理士」の必要性を力説し、
「これからのこの金融自由化の中で、こういう経験は
間違いなく生かされる・・・。」と。


しかし、バブル崩壊で急速に経営環境が悪化してきます。
相場が悪くなると、本社の社員を減らし、営業を強化します。
これが相場に経営が左右される証券会社の宿命だったのです。
だいたい社員のいうことなんかもいちいち聞いていられないですよね。

入社8年目の5月。金曜日に、突然転勤辞令が出ました。
それは名古屋の支店への異動でした。
要するに、また元のように株を売れとの指令です。

これは本当にショックでした。
「また営業かよ・・・」
「オレが東京にいなくて金融ビックバンはどうするんだ!」
それくらいの気構えでした。

これまで自分が勉強してきたことを全部否定されたようでした。
東京を離れるということは、それまで勉強してきた税理士試験を
あきらめることにもつながります。


召集令状(赤紙)一枚で戦地に赴くのが「企業戦士」です。
チベットの山奥でもアフリカの砂漠でも・・・。
これは転勤族の宿命なのですね。

夕方に、支店の総務課長から一本の電話がありました。
早くも赴任指令(召集通知)です。
「月曜日の朝、東京駅発7時30分の新幹線に乗るように・・・」

それからの2日間、その新幹線の発車時間まで、自分の人生で
もっとも悩んだ長い時間でした。
「税理士になるために辞めよう!」
もう脱サラ指数がマックスまで跳ね上がっています。
「でも生活はどうする?家族はどうする?試験に受からなかったら・・・」

「7時30分発の新幹線に乗るかどうか・・・」
つまり赤紙を破り捨て、自分の進みたい列車に乗り換えるかどうか、
悩みに悩みました・・・。



夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その20
2010.08.23

企業内税理士


また書きながら、今度は自分に対して「突っ込み」たくなってきました。
20年経って分かったこともあるのですね。
まだまだその当時は若かったものですから・・・。


「企業内税理士」どころか、「企業内弁護士」や「企業内会計士」という
言葉もありますね。
試験制度を変革して、企業内に専門家を増やす動きもあるようですが、
一向にそういう職種が増えてこないようです。
それはなぜでしょうか。

それは専門家に依頼すべきリスクを、企業内に内在したくないからだと
私は思います。
税務に関して言えば、申告書を税務署から否認された時のリスクが
常にありますね。
ですから、企業内税理士は自社の申告書を書かないのが原則です。


でも
「申告書を書かない税理士は税理士でない。」
と本当に思うのです。
税理士試験を仮に合格しても、申告書を書いてみなければ
分からないことがたくさんあります。これは経験則からもいえます。
こういうことを書くと、現在「企業内税理士」として活躍されている方から
きっとご批判を受けるでしょうか。

同様に
「オペをしたことのない医者は医者でない。」
「法廷に立ったことのない弁護士は弁護士でない。」
有資格だけの評論家では真のアドバイスはできないと本当に
思うのです。

一方で証券会社は
「投資家の自己責任」
という不文律のビジネス原則があるのです。
証券仲介(ブローカレッジ)である以上、それ以上のサービスはありえないのです。
ですから、税務申告は自己責任でやってもらうしかないのです。
よって投資家の申告書を書いてあげるサービスなんて、どこの証券会社も
いまだにやっていません。

もしそのまま運よく「企業内税理士」となっていたら、
いったい私に何ができたのでしょうか。

また税理士となって分かったこともあります。
証券会社の立場では、中小企業の貸借対照表の資産の部の「有価証券」
しか分かりません。
銀行の立場では、せいぜい資産の部の自行の「普通預金」と「定期預金」、
負債の部の自行の「借入金」しか分かりません。
顧問税理士の立場では、中小企業のそれら含め、
オーナーのこともすべてが分かっているのです。
それが分かっているといないではアドバイスの質が全く違うのです。
でも証券会社内の社員税理士に、何が分かるのでしょうか・・・。


・・・いろいろ今なら思うことは多いのですが、当時は
「野村證券を救うには私が税理士になるしかない・・・」
それくらい思っていたのですね。
ようやく税理士になりたい指数は急上昇してきます。

このブログを書きながらようやく気がつきましたが、
要するに、私が税理士を目指した理由は
「愛社精神」だったのですね・・・!



夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その19
2010.08.20

20年前の証券会社


ブログを書きながら気がついたのですが、
決して、特定の会社の暴露話を面白おかしく
アップしているつもりはありません。
20年前の証券会社がどうであったか、どんな背景で脱サラしたかを
ご説明するためです。ご容赦ください。

ちょうどその頃は、バブル崩壊という外的要因を受けながら、
証券会社が「株屋さん的古き体質」から「総合金融会社」へ
劇的に生まれ変わる時でした。
当時は、「ビックバン」とも呼ばれ、金融自由化の大きなうねりの中に
いました。


「これは大変なことになる・・・。」
危機感さえ思ったくらいです。
またファイナンス業務(銀行業務)をやりながら、証券業務とは
まったく異質なビジネスであることも実感していました。
銀行業務は「アセット・ビジネス」とも呼ばれ、融資残高(アセット)に応じて
その鞘(金利差)を抜くビジネスです。
例えば1%の利息で預金を集め、その資金を3%で貸し付けて
差額の2%儲けるようなビジネスですね。
証券業務は、「ブローカレッジ・ビジネス」とも呼ばれ、金融仲介
(ブローカレッジ)業務です。要するに手数料ビジネスです。
不動産ビジネスに喩えると、銀行は「不動産管理業務」であるのに対して
証券は「不動産仲介業務」です。
そのビジネスの違いをまざまざと感じながら、その中で、私は仕事もし、
かつ勉強もしていました・・・。


ところで昨日マスコミで
「野村證券が新卒の有能な方(英語がペラペラで専門能力を
持つようなスペシャリスト)は月給54万円で採用・・」
ということが報じられていましたね。

「54万払えるなら18万で3人採用するのが
この就職難の時の社会貢献だろ・・・」
と大学生の親なら皆ツッコミたくなるでしょうね。

でも「20年経ってようやく気がついたのかよ・・・」
これが素直な野村OBとしての実感です。
その当時、英語の操れるスペシャリストはすでに必要だった訳です。
しかも、
私自身英語も勉強していましたが、とにかく専門知識が
必要だった。とりわけ税務会計についての・・・。
間違いなくこういう人材は野村證券にはこれから必要だ!
そう確信していました。
つまり、目指したのは金融のことが良く分かって
しかも英語の操れる「企業内税理士」でした・・・。


もし今でも人がいないなら、履歴書持って野村の新卒採用に
私が本当に応募しましょうかね・・。(もちろん冗談です)


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その18
2010.08.19

株主総会での出来事


バブル崩壊で、いろいろな事件がおきました。
もう20年も前のお話になりますが、
野村證券が株式運用で損失した特定の顧客に対して、
その損失を補填してしまったのです。
これは証券取引法違反であるのは明白な事実です。
当然バブル崩壊で大損した一般の方々から大ブーイングです。
しかも、その時の社長さんが株主総会で
「大蔵省のご承認をいただいた上で、損失補てんをした。」
と発言したものですから
世間で大騒ぎになって、結果的に辞任してしまいました。

実はその株主総会に私は出席していました。
これも「今だから言えるネタ」ですね。
しかも、最前列で社長から一番近い席に座っていました。

株主総会でいうところの「社員株主」です。
総会が始まる前から出席して、前から数列を社員で陣取ります。
「意義なし!」
「議事進行!」
という掛け声を早朝から何度も何度も練習していました。
株主だけでなく日本中のマスコミが注目していた中で
株主総会では荒れることなく無事に終わるように全社員で
戦うような、まさに「戦闘兵のような」覚悟でした・・・。

その時の社長は私にとっては「神様」です。
営業主体の会社で、その営業畑を若くして上り詰めたお方です。
社員にとっては「生き神様」でした。
野村證券には当時は
「ペロは人格」
という言葉がありました。
ペロとは注文伝票を指す業界用語で、ペロ=数字、つまり
「営業の数字をあげている人は人格者だ!」
という考え方さえありました。
「洗脳」させられたというと語弊があるでしょうか。
全店ボイス(社内放送)で社長の声を聞くと、直立不動で聞いている
古参の営業マンも多くいました。
例えが悪いかもしれませんが、金正日と北朝鮮の人々の関係のような・・・。

総会では神様を何としてもお守りしなければならない。
最前列に座った社員は、暴漢が社長に詰め寄った際の対応まで
練習させられました・・・(これは内緒かな)

それが、あの「大蔵省のご承認を」のたった一言で
失脚してしまいます。
それから、証券不祥事が勃発して、野村證券どころか証券界全体が
永いトンネルに入ってしまったのです・・・・。

その歴史的な一言を、全世界の誰よりも近いところで聞いていたのが
実は私でした。

あまりの衝撃でしたね。
営業のトップに上り詰めた「神様」があの一言でコケてしまったのです。
でも法律違反をしていることは事実で、やはり「原理原則」から
外れているのです。
正直、「呪縛が解けた」瞬間でした・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その17
2010.08.18

思い通りに行かないのがサラリーマン


「自分の好きなことやって気がついたら社長になっていた・・・」
そんなおめでたい人に会ったことないですね。
サラリーマンは自分の思い通りになかなかならないのですね。

最近多い脱サラのご相談が、
「会社が倒産してしまった・・・」
「会社のリストラで・・・」
というものですね。もっとカワイそうなのは
「会社にイジメにあって・・・」
とか「会社の派閥抗争に巻き込まれて・・・」

まあいろいろあるみたいですね。
要するに、自分の努力とは別の次元で、サラリーマン生活が
無事に送れなくなるケースも実際に多いのです。

では20年前の私はどうだったか・・。
強烈な外的要因が現れます。
これはお分かりになるでしょうね。

「バブル崩壊」
です。
バブルの最先端!でサラリーマン生活を送っていたものですから
この激震は強烈なものでした。
平成2年くらいから株式相場が急落していきました。
少しあとから土地相場も急落してきます。

自分が意図していた、サラリーマンとしての「安住の地」が
これで失われるのではないかという予感は正直持っていました。

山一證券が消滅したのはご存知だと思いますが、
そのあと「証券不祥事」が勃発して、証券会社自体が
方向転換せざるをえなくなりましたからね。


どうしても忘れられない出来事がありました。
これも「今だからネタ」です。
野村證券の「損失補てん」のお話ですね。
証券マンとしての考え方が180度転換した大事件でした・・・・。



夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その16
2010.08.17

サラリーマンにとって「適職」ということ


脱サラの理由として
「この職業は自分に向いていない・・」
よく聞かれることですね。

再三申し上げている通り、このときやっていた企画という仕事に
自分の適職をようやく見つけたような気がしていました。
「これが自分の生きる道かもしれない・・・」

長い人生、自分の好きなことをやって行きたいですからね。
イヤイヤ「パンのために」生きるのもどうかと思います。

本当に30歳になって自分の特性というものが
ようやく分かったような気がしていました。
商品企画も面白かったのですが、実は企画の仕事で一番好きだったのは
「原稿を書く」仕事でした。
いまこうしてブログで「偉そうに」いろいろ書いていますが、
そのときに偶然発見した「特技」でした。

実は企画マンとして、社長のスピーチの原稿を
よく書かせられたのです。
経営計画を社員に徹底するために、社内会議をやりますね。
その社長の意思を正確に文章にして伝えるのが仕事でした。
会議の直前なんか1週間続けて書かせられたこともありました。
それをチェックする別の上司の方がいて、この方は実に筆の達つ方で、
何度も怒られました。
そこで鍛えられたおかげで自分の特技を磨くことが出来た訳で、
キツかったけど、今となってみては感謝もしています。


これもまた「今だから言える」バブルネタです・・・。
社長のスピーチ原稿ができると必ず、社長以下経営陣と企画部で
「ホテルオークラの最上階のスイートルーム」
で徹夜の会議をしました。

喧々諤々と経営論議するのです。
「経営者はこういう観点で考えるのか・・・」
これは実に勉強になりましたね。
この内容はブログではさすがにアップできませんが・・・。

会議が終えると、社長達は早々にオークラ内の「久兵衛」という
超高級な寿司屋に行ってしまうのです。
私も多少はお相伴に預かりましたが、
正直味はよく分からなかったです。
その後私だけ取り残されて徹夜で原稿を
書かなければならなかったので・・。

でもホテルオークラの最上階のスイートルームなんて
もう二度と泊まれませんかね。
社内会議くらいでオークラのスイートルームを使っていたなんて、
内緒のお話ですが、バブル時代の良き思い出です・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その15
2010.08.16

脱サラ30の法則


一つの転機が訪れたと思いました。
自分の力がいかに弱いか、「原理原則」をまだまだ知らないか
ビジネスの中で思い知らされた時でした。
年齢も、とうとう30歳になっていました。
以前、会社を辞めようと思う法則 「3日・3月・3年の法則」を
ご紹介しましたが、別の意味で「30歳の法則」もあるように思います。

20代はがむしゃらに働く時です。
でも30の声を聞くと、いろいろ思う年代のようですね。
そろそろ会社の中の位置づけや自分が見えてくる年代です。

ただ、まだその時点では会社を辞めようとは思っていなかったし、
税理士になりたい指数もそれほど上がってきません。
とにかく自分自身に力をつけようと思っていたときでした。

まず、英語について多少コンプレックスをもっていたので
当時八重洲にあった英会話スクールに夜間(自腹で)通いました。
ただこれは実際には仕事が忙しくて、ほとんど通えませんでしたね・・。
それと会社で購読していた英字新聞(Financial Times と
Wall Street Journal) を毎日朝7時に出社して読んでいました。

では肝心の税理士試験の方は、ついに大原簿記学校に通うことにしました。
ようやく税理士試験は独学では受からないと悟ったのですね。
ただ平日はとても時間が取れないので、土曜日のロングクラス(!終日です)
の簿記論のみ勉強することにしました。

この頃は本当に充実していたと思います。
私生活も2人目の子供が産まれ、余計に仕事に没頭します。
ここは、アンチ脱サラ理論の「子はかすがい理論」です。
脱サラなんて考えずに、この子のために頑張ろうと思うのですね。
毎日7時には出社して、深夜1時まで仕事しているのはざらでした。

一方でバブルのピークですから、飲食のお誘いも断りません(!?)
深夜1時に仕事終わってから(!)飲みに行ったり、
料亭「吉兆」に初めていったのもこの頃でした。(内緒ですが・・)
日曜日になるとお付き合いの「下手な」ゴルフも・・・。

こういう状況でしたから、土曜日に朝から大原に通ってはいたものの、
新しいことを勉強しているだけで満足し、授業は寝てばかりいました。


まあこんな感じですので税理士試験を真面目にやっていたとは
いえないでしょう。
復習する時間すらなかったわけですから。

でも相変わらず、必死に仕事はしていました。
そのおかげで、当時の同僚から、いまでもお仕事をご紹介して
いただくこともあります。ありがたいものです。

バブルのピークでもありましたが、
自分のサラリーマン人生のピークでもあったのです・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その14
2010.08.12

サラリーマンにとって上司という存在


昔話をアップし始めて思い出したことがあります。
週末になると居酒屋で
「課長のアホが・・・」とか上司の悪口を言いながら
飲んでいるサラリーマンがよくいますね。
それはそれで楽しいのでしょうけど、逆に
「上司に恵まれた」
ということも滅多にないらしいですが、大事なことなのですね。
脱サラのきっかけとなる「トリガー」を引いてくれた恩人がいました。
ある信託銀行から出向してきた上司でした。

この方には鍛えられましたね。
「だから証券マンはダメなんだ・・・」
厳しくよく言われました。
「銀行ではビジネスをこう考えるのだ!」
よく怒られました。
まったくビジネスのカルチャーが違うというか・・・。
これはどういうことか、面白いので解説してみましょうか。

口癖のように
「原理原則で考えるのだ!」
そう指導されました。
法律のお話がでたら、まず六法を引くのです。
原理原則から物事を考えるのです。
今税理士となってみて、これは当たり前のことなのですが
当時は衝撃的なお話でした。

では当時の証券マンならどうしたか。
分からないことがでてきたら、すぐ専門家に聞きに行くのです。
「こういうことで問題ありませんか?」
そんな「幼稚な」聞き方なのです。
これは証券マンのカルチャーだと感じていました。
今はどうか分かりませんが、こう教わっていたのですね。

「社内研修があれば、必ず一番前に座って、
終わったら講師と名刺交換する。
懇親会があれば必ず出席してその講師と仲良くなる。」

なぜかというと、
「証券マンはとにかく営業で忙しい。
考えているヒマがあったら、詳しい人に結論から聞いた方がよい。
そのためには常日頃から専門分野に詳しい人と親しくなる
ように努力しろ!」
それは新人時代から教わっていたことでした。


「原理原則で考える」
これは税法で問題が出たら、税務六法から考えることなのです。
面倒がらずに、税務六法で調べることが原理原則なのです。
こういう事案は法律に照らしたらどうか。
通達や判例からどう判断するのか。
原理原則から考え、それでも判断できない時こそ専門家の
出番なのです。

でも、そもそもその六法の引き方さえ分からない自分が
そこにいました。
自分の力がいかに無力か思い知らせてくれた上司でした。
そういう意味で私は上司に恵まれたと思っています・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その13
2010.08.11

税理士試験初受験!


企画マンとして必要に迫られて税金の勉強でした。
このあたりから「税理士になりたい指数」がだんだん上昇してきます。
でもこの時点では、「脱サラ指数」は一向にあがらなかったのですね。
なぜなら、この企画の仕事が面白くてしかたがなかった。
結果的に開発できなかったものの、当時の大蔵省とか通産省にも
出入りできたのですね。
これはやはり野村證券の持つカンバンの力だったのでしょうか。
日本で一番でかいローファーム(法律事務所)とも
何度も交渉したりして本当に面白かった・・・。
いくらでも経費が使えたし。

だから、税理士として独立しようなんてことは思わず、
この社内で活躍する税理士にあこがれたのですね。
「これからは金融自由化がますます進む」
「金融証券・不動産に強い税理士は間違いなく必要とされる」
そう思ったのですね。
やはり金融証券に圧倒的な地位を築いていた野村證券という
組織もやはり大事だとも思っていた。
だからこそ、辞めようなんて事も思っていなかったのです。
「企業内弁護士」という言葉が使われ出した頃でした。
やがて「企業内税理士」が必要とされる。
そう確信めいたものも持っていました。


ただ、ここで肝心なのは、「税理士という職業が何をやるか」
それと肝心なのは「税理士試験というのはどういうものか」
分からなかったのですね。

当時は簿記検定2級を持っていました。
だから、きっと簿記検定1級ほど難しくもなく、
「簿記検定 1.5級」くらいにしか思わなかったのでしょうね。

この年初めて税理士試験の簿記論を受験してみます。
一応そのために夏休みまで取って。
実際に試験勉強なんか特別にしていません。
まあ
とりあえず受けてみようか。くらいの軽いのりで・・。

こんな受験生はいなかったでしょうね・・・。
税理士試験を甘く見ていたのですね。
これはブログ「ガンバレ受験生」にアップしたネタです。(このブログ)
本当にダルマさんで、試験にまったく手も足も出ませんでした・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その12
2010.08.10

地価連動債


今だから言えるシリーズはこれで最後です!
(あんまり書くと問題かと・・・)

企画マンとして、「地価と連動して金利が上昇する!」債券を
作ろうと考えたのですね。
ちょっと分からないでしょうか。
こんなことを考えたのは私だけだったのでしょうね。
(本当に私の頭の中だけでしたので公表してもいいでしょう)

時はバブルです。「土地神話」を前提に、土地を担保に金利を安くして
融資します。最後の一括返済の時に値上がり分に相当するボーナス金利を
設定する。それを証券化するのです。その商品を購入した人は
土地の値上がり分に相当するボーナス金利がもらえる・・・。
そんな仕組みでしたね。

連日のように法律事務所に行って、法的側面から
この商品を開発していました。
ところが、こんな商品を購入した人の税務面の議論になったら、
まったく前に進まなくなってしまいました。
そもそもこの金利は「何所得か」なんて分かりますか?

弁護士の方は税金に詳しくありません。
それでその法律事務所と提携している公認会計士を
紹介されました。
ところがその会計士もまったく税金にうとかったのです。
それで会社は顧問税理士を別に依頼することになりました。
ここで生まれて初めて「税理士という人種」の方との遭遇です。
本当に未知との遭遇でした。

期待してお会いしたのですが、残念ながらこの方も、申し訳ないですが、
有価証券やら金融商品についての知識が全く無い方でした。
それは何故か。
ここでまた業界の批判をしたら大変申し訳ないですが
上場企業や大手企業は大方顧問税理士として、税務署のOBの方を
迎え入れているのですね。
そのOBの方もかつては税務署長だった大先生がほとんどです。
そういう方に、「リースやスワップだ」なんてカタカナのことは
まったく分からないし
「地価に連動する債券・・・???」
まったく話が通じないのですね。

そもそもそういう大先生をどういう目的で迎え入れているか
ということを考えたら仕方がないのでしょうね。
(この内容はブログでは書きません)

そういうことで
「では私が税理士になってやろう!」
そう思ったのですね。
こんなきっかけで税理士を目指した人も少ないでしょうね。

ただ、この「地価連動債」も残念ながら私の能力不足で、
「お蔵入り」しました。
もし開発できていたら、その後のバブル崩壊で、
多分大変な騒ぎになっていたでしょうね。
まあ出来なくて良かったですね・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その11
2010.08.09

商品ファンド


今だから言えるシリーズの第二弾!
FX取引が現在流行っていますね。
昔は「商品取引」と言っていたのですが
かっこいい呼び名に変わって、いまやどこの証券会社でも
取り扱うようになりましたね。

その「商品取引」いうのは、商品相場を扱うのですね。
株式の相場を扱う元証券会社のものが言うのも何なんですが
当時の商品相場は結構あやしかった・・・(スイマセン)
その当時、「商品ファンド」というのも、ありました。

しかもバブルの頃ですから、相場が加熱して、
もう何でも「ファンド」というのが流行ったのですね。
「映画ファンド」とか「ワインファンド」、「絵画ファンド」、
「競馬ファンド」、「牛ファンド」などなど・・・。
海外からも先行して流行っていた「商品ファンド」が
日本に輸入されるような動きも。

本当にあやしいファンドも発売されましたね。
それで投資家保護が問題視され
政府が規制をかけるような動きが出て
1991年に「商品ファンド法」が制定されたのです。
その頃、野村グループも参入を検討していたのですね。
それを担当していたのが実は私でした。
通産省の担当官に何度かお会いしました。
今だから言えますが、実は「商品ファンド」を立ち上げようと
画策していたのですね。
面白かったですが・・・。
またここで税金はどうなるのだろう?結構悩みましたね。
ここでも勉強しました。
結局いろいろな事情で発売できませんでしたが
その後のバブル崩壊を考えれば、結果的にはよかったですね・・・。


ただ、忘れられない出来事がありました。
初めて日本に商品ファンドを持ち込もうとした米国の業者が
あるホテルで説明会があり、私が参加しました。

しかし参りました。すべての資料が英語で
解説もすべて英語なのです。
終わったら、皆英語で話しかけてくるのです。
「商談しましょう」と・・・。

あの頃私にもっと英語力があれば
今頃私はどこかのFX会社の社長くらいには
なっていたかもしれませんね・・・!?



夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その10
2010.08.06

タックス・ヘイブン


今だから言えるシリーズです。
タックスヘイブンってご存知ですか。
日本語でいうと租税回避地。
タックス(税)がヘイブン(避難所)なんですね。
よく間違えるのが、
「税金天国」タックス・ヘブン(天国)ではありません。
まあ意味的には似たようなものですが・・・。


先日のNHKのドラマ「国税査察官」にも、
そのタックス・ヘイブンの一つ「バハマ」が出ていましたね。
西インド諸島にある島で「ケイマン諸島」もこのタックスヘイブンで
有名ですね。本当に美しい島らしいです。
所得が非課税のまさに「税金天国」、「夢の島」ですね。

実は私はこの島に会社を何社も設立しました。
もちろん一度も行ったことありませんでしたが・・。
当時ファイナンス会社では、ほとんどの会社がこのケイマンで
子会社を作っていましたね。
ファイナンス会社にとどまらず、商社など大手企業も作っていたのでしょうね。
タックス・ヘイブンの会社設立の経験がある税理士も
少ないでしょうけど・・。

何をやっていたかというと、これも守秘義務がありますが、
面白いのでサラッとご紹介しましょう。

所得がかからないので会社をここに設立するのです。
その会社に発行した債券を持たせ証券化するのです・・・。
難しいですかね。
その証券化手法が面白かったですね。
金を介在させて割賦販売の手法で証券化するのです・・???。
まあ難しすぎて分からないでしょうけど・・・。
専門用語で「スクエア・トリップ・トランザクション」
日本語に訳すと「かご抜けリース」と呼ばれていました。

なんか「かごぬけ詐欺」みたいな怪しい取引ですね。
NHKドラマではないですが、脱税スキームでもないです。
世界の金融取引の多くがこの地に集中していたのです。
その後税制改正でも注目され、国会でも議論されたので
ご存知の方も多いでしょうか。
でも当時は税金がかからないというのが不思議でしたね。
やっはり、これも解説してくれる税理士の方もいませんでしたが。

契約書がすべて英語でしたので、専門の弁護士に依頼して
いました。
本当に私に英語力があったらもっとやれたのでしょうけど・・。

でも世界の金融経済の大半の資金が、この何もない
美しい島に流れこんでいる実態には驚きでした・・・。
「税金にはこんな世界があるのか・・・」と。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その9
2010.08.05

税金のお話は税理士ではないの?


当時思ったことを本音でご紹介しましょう。
当時はその節税商品について、ずいぶん勉強したつもりです。
自分自身悩みましたが、残念ながら基礎知識がないせいで
「これが本当に節税商品なのか?」分からなかった。

実は、残念ながら教えてくれる税理士が回りにいなかったのです。
証券会社で税務の相談は、当時は公認会計士でした。
当時証券会社内には、監査法人から派遣された公認会計士が
ウヨウヨいたからです。
やはり監査法人にとっては、証券会社は「上得意顧客」です。
将来、上場公開しそうなお客さんを紹介して欲しいですからね。
それこそ新人研修のときも税金を教えたのは
公認会計士でしたから。
怒られるかもしれませんが、公認会計士はそれほど税金に
詳しくないです。(すいませんが本音です)

今だから思いますが、根本的に間違っていたと思うのは、
質問する相手を間違えていたのですね。
でもお恥ずかしいお話、公認会計士と税理士の区別がつかなかった・・・。

ファイナンス会社の企画部でいろいろな商品を考えたつもりです。
節税を目的とした「不動産の小口化商品」なんて当時流行ったものです。
「これはつまりこういうことですよ。」
と税の立場から、専門家として分かりやすく教えて欲しかった。

また「リース」という金融取引ありますね。
この「リース」こそ、税金そのものだと当時思いました。
例えば、600万円の車をリースで10万円の60回払いにしたとしますね。
10万円は当然経費です。
では、15万円の40回払いにしたら・・・。
企画の立場で新商品開発でいろいろ考えるのですね。
ではその支払い方法を、さらに固定から変動に変えたら・・・。
ちょっと難しいお話かもしれませんが、当時は「スワップ金利」
が流行り出していた頃でした・・。
(一応守秘義務もあるのでこれ以上は話せません・・)


でも税理士となった今なら思うのですが、やはり
「税金のことは税理士」ですよね。
「証券化」に強い公認会計士はいたものの
でも残念ながら、回りにそのいう、不動産や金融商品に強い税理士に
お会いしたことはなかった・・。

本当は探せばいたかもしれませんが、お会いできなくてよかったのですね。
つまり、そういうことから自分が税理士を目指そうというきっかけに
なっていったからです・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その8
2010.08.04

本当の節税対策とは?


本当にバブルの頃、「節税」と称するものが大流行でした。
「借金してアパートを建てましょう。」
「借金して一時払い養老保険に入りましょう。」
「借金してゴルフ会員権を買いましょう。」
「借金して別荘を持ちましょう。」

これが皆、本当の意味で節税だったかどうか・・・。
これは今税理士となって本当に思うことなのですね。


建設会社や保険会社、ゴルフ会員権業者の立場では
当然ですが自社の商品を買って欲しい。
これは至極当たり前のことなのですね。

それには、「節税」という「味付け」がどうしても欲しいのです。
例えば高級車の販売会社なら、
「節税のためにベンツでも買っておきましょうか」
それが当時当たり前のセールストークになる・・・。

しかも、その借金を勧めるのが、当時はそれら業者と提携していた
銀行であり、ファイナンス会社だったのですから、
これこそもう「何でもあり」ですね。
有名なお話なのですが、当時の銀行マンのカバンには、
系列の会員権業者のゴルフ場のパンフレットも入っていた・・・。
やはり、銀行やファイナンス会社が、このバブルを煽った責任も
あるのではないでしょうか。

それに対して、「税」に中立な立場でいなければならない税理士は
どんな役割だったのか・・・。


面白いお話をご紹介しましょう。
私も企画マンとして当時の「節税セミナー」にはよく参加しました。
会社の経費で許されたので積極的に行って勉強したものでした。

当時「究極の節税術!アパートセミナー」や「一時払保険で相続税対策」
なんて「ハデに」やっていた税理士の講師もたくさん知っています。
でも結構今いなくなっているのですね。
「行方不明の」先生も多いらしいです。

でも先日、バブル当時「土地活用」のセミナーをよくやっていた大先生に
お会いしました。
いまや鞍替えして「生命保険活用のプロ」で活躍していましたね。

まだまだバブルの戦犯も(こんな言い方もマズイか・・)
生き延びているのですね・・・。(くれぐれも内緒に)


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その7
2010.08.03

夢のような・・バブルのような・・


今思い起こせば異常な時代でした。
世の中すべてがバブル色です・・・。
投機熱が過熱しすぎて、多くの資金が株や土地へ向かっていました。

株式市場は日経平均が毎日100円単位で上昇し、
買った不動産が数ヵ月後には3割くらいも上昇し、
新規募集されたゴルフ会員権も1ヶ月で5割り増しに・・・。

企業は「財テク」と称して、株式運用を拡大し、
証券会社は「特金ファンド」という受け皿を作って
あらゆる業種業態から大量の注文を受けていました・・・。

ものの価格が皆上昇するのですから、それこそ借金してでも購入すれば
金利を支払っても十分おつりがきますね。
一方株や土地を持っているものは、脹らんだ「バブル資産」で
急に金持ちになったような「錯覚した」気持ちになり、
これが余計に消費へとつながっていく。

一介のサラリーマンでも借金してでも、ゴルフ会員権を持ち
手取り20数万円の平社員が、1回数万円のゴルフに興じる。

感覚が麻痺していたのかもしれませんね。
私自身も昼はデパートでグルメランチを食べ、
夜は銀座で飲むこともありました。(当然自腹ではない・・)
内緒のお話かもしれませんが、深夜になるとタクシーが
まったく捕まらなくなるので、(本当にこれもトンでもない時代でした)
ハイヤーを待たせて飲んだことも・・・


ところで、バブル時代はものが高く売れれば利益がでます。
利益がでれば当然税金です。
そうなのですね。
ここで私のライフワークとなる「税金」と
真正面から向き合うことになるのです。

都心の土地が高値で売れれば、高額の税金が出ます。
また土地所有者が亡くなると高額の相続税が発生します。
「相続破産」ということが初めて言われた時代です。

それで「節税対策」の登場なのですね。
つまり、税金対策が当時のキーワードだったのですね。

「相続税対策のために借入してアパート建てましょう!」
なんてセールストークが流行っていた時代です。

税理士の先輩から聞いたお話なのですが
バブルのころは、事務所のシャッターを朝開けると
待っている人が数人いたそうです。

残念ながら私は経験できなかったのですが
税理士業界もきっとバブルだったのでしょうね・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その6
2010.08.02

セキュリタイゼーション


ファイナンス会社では
「貸付債権の証券化」が主な仕事でした。

まさにバブル時代。
「土地神話」という言葉の通り、
「土地は必ず値上がりする」ということが信じ込まれていました。

不動産担保に資金を融資し、その債権を証券化(セキュリタイゼーション)して
売却する・・・
結構シンプルなビジネスモデルでしたが
不動産会社を中心に融資先はいくらでもあり、また証券化された商品も
飛ぶように売れていました。

不動産そのものに興味を持ったので、その不動産についても
結構勉強しました。
その頃、「宅地建物取引主任者」の勉強をして
資格も取りました。
この「宅建」の資格は勉強して実に良かったと
思っています。
いまや税理士として常日頃から謄本を見ることは
よくあります。
不動産や会社の謄本の見方を知っていて
どれだけ役にたったか。
また不動産の鑑定書もよく見ましたので
不動産の相場観の勉強にもなりました。

不動産の値上がりが顕著なあのバブル時代です。
「不動産小口化商品」というのがあったのがご存知ですか?
いまやREIT(不動産投資信託)があるので、結構ポピュラーですが
その頃が先駆けでした。
国内の不動産を、「匿名組合」や「任意組合」というような
共有で所有すという、いわば今のREITの原型みたいなものです。
新しい案件や仕組みが企画部につぎつぎと持ち込まれていました。
おかげでずいぶん勉強しましたね。

もう国内の不動産だけにはとどまらず
海外の不動産の証券化というのもありましたし、
不動産以外にも「航空機の証券化」もありました。

あまりバラスと問題かもしれませんが
何でもありましたね・・・。

ゴルフ会員権も皆値上がりした時代です。

「赤信号 みんなで渡れば怖くない」
ではないですが

「バブル時代 みんなで持てば怖くない」
証券化の大流行のときでした・・・。



夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その5
2010.07.30

上司はなんと銀行マン


やる気十分で新会社に赴任したところ、
上司はなんと銀行から出向してきた方でした。

しかも、海外赴任の経験もある英語ペラペラ。
企画部の同僚も皆英語ペラペラ・・・。
「ずいぶん場違いなところに配属された」
本当にそう思いました。

これはものすごいカルチャーショックでしたね。
それまでほとんど国内の証券営業の仕事でしたから。

銀行のビジネスと証券のビジネスというのは
まったく異質なものなのですね。
これは本当に勉強になりました。

ところで営業というのはキライではなかったのですが、
やはり数字を背負いますよね。
そのプレッシャーがたまらなかった。
でも営業の出来る人にとっては、それは楽しいのでしょうね。

ただ、本音のお話として、一方で営業を外れたことで、
また自分自身も力をつけたいとも思っていました。

野村證券とは営業主体の会社です。
営業ができて、営業課長になって支店長になって・・・。
いわゆる出世コースは、当時は営業畑からでした。

営業という職種から外れるということは、その出世レースから
外れるということを当時は意味していました。

ただ、まだこの頃は辞めようという「脱サラ指数」は
上昇しなかったのです。
この仕事は面白い、自分に合っているのではないか。
本当にそう思っていましたから。

「なんでも吸収してやろう!」
そう思ってここでも人一倍働いたと思います。
早朝7時には出勤して、夜10時、11時は当たり前でした。

働くとは別に「社内活動」も楽しんでしていました。
社内には銀行、不動産、リースいろいろな人種、職種の方々が
いるのです。
仕事帰り、いろいろな方を誘って、酒を片手に議論することも
本当に楽しかった。

このように、「脱サラ指数」は一向に上昇しないまま、
いよいよ空前絶後の「バブル景気」に突入です・・・。



夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その4
2010.07.29

サラリーマンにとって出向ということ


その野村證券の「戦略子会社」は、実は野村グループ4社の
合弁企業でした。
その会社に出向という形で行ったわけですね。
今日はその「出向」について触れてみましょうか。

最近大企業では出向という転勤がよくあるようですね。
どんなとらえ方すると思いますか?
これは出向になったものでないと分からないでしょうね。

後ろ向きに考えると、
「ウチの会社にはいらないから他の会社に行ってくれ!」
ということになるでしょうか。
よく50歳台くらいで、関連の会社や得意先に「出向」という
形で異動する方を見かけます。
非常に言い方悪いですが、「天下り」や「片道キップ」みたいな。

「他の会社で、もう少し別の経験をして欲しい!」
これは前向きなお話なのですね。
若手の社員の出向に多いのでしょうか。

ではまだ28歳の当時の私はどう思ったか。
やはり正直ショックでしたね。
「転勤ではないのか・・・」
でも結果的に出向して良かったと今では本当に思っております。

ではその良かった理由を。
いろいろな業種の方とお付き合いができたということですね。
その会社は、銀行、ベンチャーキャピタル、不動産会社など
まさにいろいろな人種がいました。

今でこそ税理士としていろいろな会社とお付き合い
させていただいております。
そういう経験を持ててよかったと思っております。

当時「野村マン」という言い方がありました。
「野村證券で生まれ育った企業人」のことでしょうか。
それが「金太郎アメ」といわれ批判されたことも
あったようですが・・・。

同じような言葉で、電通には「電通マン」東芝には「東芝マン」と
どこの会社にでも、その企業風土に根付いた人種が
必ず生息しているのですね。

もし定年まで勤めたら、本当に「野村マン」だけで終わったでしょう。
でも出向のおかげで違う見方ができたのですね。
「世の中は違うぞ」と。
結果的にそれが脱サラにつながったと思っています。

本当に出向したら上司が銀行マンだった・・。
おかげさまで、いろいろな見方を教わりました。
それはそれでよかったと今では思っております・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その3
2010.07.28

平成元年という時代


いきなり20年も前のお話をしても分からないですかね。
当時の金融業界を少し解説してみましょう。

平成元年当時、野村證券は「ガリバー」と呼ばれていました。
証券界では国内には敵がいないと本当に思っていました。
その野村證券が、平成元年4月に戦略的子会社を作りました。
ファイナンス会社で、残念ながら、「銀行」
ではないのですね。
つまり、当時、証券業界に敵がいないと悟った野村證券は、
今度は銀行業務に参入しようとしたのですね。
でも当時は、大蔵省(今の財務省)の力が強烈に強くて、
そう勝手に銀行業務には参入できなかった。
銀行業界からも猛反発を受けていたのでしょうか。

でも当時こんな言葉も言われていました。
「金融ビックバン」
つまり、金融業界にある規制を急激に緩和して、
日本の金融市場をより活性化しようという動きもあり、
そのため国際的にも競争力をつける必要もあったのですね。

それで、銀行ではないファイナンス会社を作ったのですね。
これを「ノンバンク」といっていました。


また時代背景も詳しく説明しておきましょう。
昭和から平成に移ったまさに平成元年、どういう年だったか
ご存知ですか。
平成元年(1989年)12月に
日経平均が最高高値38,915円をつけた年です。
まさにバブル景気突入の瞬間でした。
その株式市場にもつられて、土地の値段も上昇しましたからね。
そのピークは2年後の平成3年(1991年)といわれています。

ですから、平成4年に退職した私は、バブルのピークを見極めてから
脱サラしたといえますね。
今更ながら、もうすごい「相場観」だったと思っています・・・。
なんと見事な脱サラのタイミングだったのでしょう。

サラリーマン時代の最後の3年間はまさに「バブルのような」、
「夢のような」3年間でした。
楽しくもあり、また強烈に仕事もし、かつ勉強になった3年間でした。

バブル時代にそのノンバンクといわれる業種が
何をしてどんな役割だったのか。
まさに私は時代の「生き証人」なのですね。
それこそ、今だから言えるお話を、「守秘義務の範囲内で」
ご披露してみましょう・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その2
2010.07.27

4度目の転勤


また昔話を始めます・・・。
時計の針を平成元年まで戻します。

その平成元年5月に、私は野村證券での4度目の転勤をしました。
東京本社への転勤です。
でも5年間でもう早くも4度目の異動です。
転勤に慣れっこにはなっていたものの、
やはり転勤とはイヤなものです。
でもこのとき私の「脱サラ指数」の針は少し動いただけでした。
それはなぜか?

実に面白い仕事につくことができたのです。
当時野村證券が設立したばかりの戦略的子会社に
出向し企画部に配属されたのです。

サラリーマン経験者ならこれは誰でも思うのですね。
転勤のある度に
「会社はいったい自分の適性を見てくれているのか?」
と。
「オレのやりたい仕事は違うんだ!」
上場企業にお勤めなら一度は必ず思うのでしょうね。
でも多くの上司は
「イヤイヤ。いろいろ君の適性をいろいろな人から見てもらった上で、
将来的には君に合うしかるべきポジションに・・・」
というような、もっともらしい理由を言われるのですね。

でも自分自身はどうだったのか。
この頃はもう入社して6年目に入ったときです。
30歳を前にして自分の置かれているポジションや
将来の位置づけが何となくでも分かってくるころです。
前にもアップしたように、証券会社に勤めながら
どうも株式の営業が好きになれない。
「上がるか下がるかわからない」自分が納得できない商品なんて
正直売りたくはないのですね。

それ対して一度だけやった企画の仕事は、確かに面白いと思った。
「やはり会社は自分の適性見ていてくれたのだ・・・」
何となくそう思ったのですね。
このときもやる気マンマンで新会社に乗り込みました。

このとき「脱サラ指数」0パーセントで
「税理士になりたい指数」も0パーセントでした。
ではなぜ3年後税理士を目指して野村證券を辞めたか
正直に振返ってみましょう・・・。


夢をかなえるゼイ 私の脱サラ日記 その1
2010.07.26

私の脱サラ日記を始める理由


また人気シリーズ?を復活させましょうか。
先月に当事務所で人の採用のお手伝いをしたということは、
アップしたとおりなのですが、本当にいろいろな方にお会いしました。

実は、不景気のせいでしょうか、当事務所へ直接応募も多かったのです。
ここだけのお話、税理士や会計士の資格をお持ちの方からもありましたし、
もっと驚いたのは、
現在某證券会社にお勤めの東大卒の方から応募の打診もありました。
正直ビックリしましたね。
お話をお聞きすると、「ぜひ吉田事務所で働きたい。」ということなのですね。
大変ありがたかったのですが、実はすべて丁重にお断りしました。

何故かというと、実際にお話をよくお聞きすると、
「脱サラして将来税理士として独立したいのですが、
実際に独立して活躍している吉田のお話が聞きたい。」

実はそういうことだったのですね。
いつかは辞めたい方を採用することはやはりできないのです。

でも、一方でそのお気持ちもよく分かるのですね。
今は某証券会社やある監査法人や税理士法人にお勤めしながら
やはり将来的には脱サラして税理士として独立したい。
そんな考えを持たれている方が多いのでしょう。

さらにショッキングなお話として、昨日の日経新聞に、
監査法人最大手の新日本監査法人の大量リストラのニュースが
出ていましたね。
この業界も、それだけ厳しい状況なのでしょうか。
「し方がないので税理士でもなるか」
なんて安易な会計士が増えても困りますね。

まあそんなことはいいとして、やはり「脱サラ」のお話は
皆さん本当にご興味あるみたいです。

ところで、結構気合を入れて書いていた、ブログ「夢をかなえるゼイ」でも
まだ脱サラしていなかったですね。

「どうして吉田さんは野村證券を辞めたのですか?」
「なぜ税理士を目指したのですか?」
という問いにまだお答えしていないことに気がつきました。

私は野村證券を平成4年5月に退職しました。
もう18年も前になるのですね。
その頃のお話なので、もう時効成立しているので、
何を書いても大丈夫ですかね!?


これから脱サラしようと考えている人、
もう会社を辞めたくなっている人、
日曜日のサザエさんの歌を聞くと憂鬱になる人
のために、自称「脱サラ評論家」がまたお得意の「昔話」をしてみましょう・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その13
2009.11.20

横浜というところは坂が多い街です。
でもその坂を上りきった見晴らしの良い高台には、必ず屋敷街があって
会社経営者など資産家が多く住んでいました。

その大金持ちを目指して、休みの日に株式の資料をたくさんカバンに入れて
その坂道を登って外交しました。
横浜港に有名な「中華街」がありますね。その裏手の山を登っていくと
「港の見える丘公園」があって「外人墓地」もあります。
だれでも知っている有名なデートコースですね。
実はその先にこれが「格差社会か」と本当に実感できるような
超高級なお屋敷が、当時並んで建っていました。

楽しげなカップルを横目に、背広を着たセールスマンが大汗を拭きながら
重いカバンを持って回っていました。
「こんにちは。野村證券の吉田です。」
休みの日に来られても、ほとんどが相手にしないか、居留守を使われます。
でもそんなことは最初から覚悟の上で、資料をポストに入れ、
翌週また電話するのです。
「資料読んでいただきましたか?」と・・。
その繰り返しの中で新規顧客開拓を目指しました。
そう簡単には成果がでませんでしたが、毎週末「丘営業」を繰り返しました。
その頃は、もう観念して、株式の営業は「夢を売る営業」なのだと
思うようにしていました。

そんな古典的な営業を数ヶ月した頃でしょうか、
ある大邸宅で「若いのに熱心だね」と老経営者が
扉を開け私を家に招いてくれました。
その時は自分が公務員を脱サラして会社を起こしたことと
苦労して大きな企業グループにしたことを話してくれました。
今思えば自分が脱サラして努力していた頃を思い出しても
いたのでしょうか。

それから数週間何度か訪れたあと、鉄鋼株の株価が急に上昇してきました。
意を決し、老経営者に電話しました。

「社長!東京ウォーターフロントの夢を買いませんか!
50万株買ってください!!」
一世一代のセールス・トークだったかもしれません。

「分かった。いくら必要?」
思いがけずそう言われて、電卓を叩く手が震えていました。
支店中が急に静まり返って、私の電話を聞いているようです。
「×億×××万円です。あ、ありがとうございます。」

電話を切った瞬間、支店中がスタンディング・オベーションです。
金太郎支店長が飛んできて、いきなり握手を求められました・・・。


20年経っても忘れられない、私の短いセールスマン人生で
絶頂の瞬間でした・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その12
2009.11.19

営業の何がキツカッタかというと、株式の営業です。
やはり何度も悩んだように、株そのものが好きになれない・・・。
そういう営業マンが株を勧めてもやはりダメなのですね。
これはどうしようもないことでした。
でも金太郎支店長から毎日のようにゲキです。

当時野村證券では株式を「大量推進販売」という手法で売っていました。
これも証券不祥事のあと、これも問題視もされ、
今では無くなってしまった販売手法です。
ガリバーといわれるほどの大証券会社が
特定の銘柄を勧めるのですから、かなりの確率で大幅に上がります。
でも「野村證券が勧めるから株が上がる・・・」
どこか変に思ってはいました。
せっかく本社のトレーダーにまでなって株を勉強したのに
そんな幼稚な理由で株を勧められないのですね。
納得できないものを売るのは正直つらいのです。

当時野村證券が取り上げていた株式は鉄鋼株でした。
「東京ウォーターフロント銘柄」といって、
「東京湾岸に工場を持っている鉄鋼会社は土地の含みがあるので
今後莫大な価値が出てくる・・・」
確かそんなシナリオだったと思います。
ですので別名「シナリオ営業」とも呼ばれていました。
社命で株を勧めるのですから、これは自ら洗脳しなければならない。
東京の有明や千葉の幕張など3回ほど見学にいったでしょうか。

「これは鉄鋼株は大幅に上昇する・・・」
そう自ら洗脳しようと努力しました。
会社に生き残るには、当然営業成績をあげなければなりません。

今思えば洗脳しようとしたものの、どこか冷めている自分がいました。
結局休みの日もその鉄鋼株の資料をたくさんカバンに入れて
横浜中を営業していました・・・。
本社では自分の特性を見つけ喜んで働いていたのに、
正直働かされている感じがしていました。
本当にイヤイヤやっていたのかもしれません。

だからこそキツカッタのでしょう。
結局サラリーマン生活は8年ほどしかしませんでしたが
この横浜での営業マン時代が一番つらく苦しいときでした・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その11
2009.11.18

横浜に赴任した時、支店長の顔を見るなりすぐ感じました。
「金太郎だ・・・」
やはり、丸顔で小太りで、眼鏡をかけていて
それで七三に髪の毛を分け、ギロッとした目、
そして声がやたらでかい・・・。

その「金太郎支店長」は私にこういいました。
「本社で少しなまっているだろうから、現場で頑張ってください」
厳しいゲキで迎えてくれました。

その金太郎も、まだ30代の若手バリバリ。
営業課長から支店長になったばかりで、もうやる気マンマンでした。
当時は30台でも、多くのトップ・セールスマンが支店長になっていました。
ちょうど、ある支店で、入社10年目の支店長が抜擢されて、
「異例の人事」としてマスコミで話題にもなっていたときでした。
会社全体として「キープ・ヤング」という言葉があって、
とにかく「若手の抜擢を」という社内風土もありました。

ただ、その「キープ・ヤング」ということは、
その後の証券不祥事のあと問題視もされ、
やがて言われなくなってしまいましたが・・・。


金太郎支店長は私の顔を見るなり、
「支店の窓口の店頭係をやってもらおうと思っていたけど
キミは営業マンの顔だね。さっそく営業課に担当換えしよう。」

といって3年も年次が上の先輩をいきなり
私と交代させてしまいました。
「そんな・・・」

一方で入社5年目というのは、もう会社では一人前の扱いなのです。
野村證券では当時、(多分今でもあると思いますが、)
インストラクター制度というのがあって、入社数年経つと
新入社員の教育担当としてメンドウを見ることになっていました。

当然、入社5年目の「中堅」営業マンとして成績もあげなければなりません。
担当先が2000件くらいあって、支店の収益も稼がなければならないし
しかも新人君2名のメンドウもみる・・・。

まさにキツカッタのです・・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その10
2009.11.17

ここで野村證券の昔話を長々アップする前に、
少しお断りを申し上げておきましょう。
特定の企業の暴露話や批判などするつもりもありません。
以前アップしましたが、私は野村證券に高校生の頃から
入社したかったのです。これは本当なのです。
だからこそ大学では証券論も専攻した・・。
野村證券に世話になったと思っているし、今でも「愛して」おります!?
こんな人は、今の社員の中でも少ないでしょう。

それなのに
「なぜ私は野村證券を辞めたか」
「なぜ税理士を目指したか」
を説明したいからこそアップしているのです。
どうぞその点ご理解ください。

でも書きながら、昭和の時代の「野村證券の経営術」も、
ある意味で参考になるかなと思ってきました。
今思えば、「昭和の時代の成果主義」ではないかと・・・・。


「金太郎アメ経営」と「ダイヤモンド経営」

こんな言葉を今時、経営コンサルタントの方も言わないでしょうね。
実は、ご存知かもしれませんが、野村證券はその後、バブルを経て、
損失補てんや総会屋事件など、スキャンダラスな証券不祥事を
次々に引き起こし、結果的に大きく変わりました。
よくマスコミは、「金太郎アメの功罪」として書き立てていました。
そこで、この「ダイヤモンド経営」という言葉を引き合いにして
「ダイヤモンドがいつの間にか、つるつるの球体になってしまった」
「金太郎アメが証券業界を変えてしまった」
などと言われ続けました・・・。

でもかつていた社員として、正直に申し上げます。
あの当時「金太郎アメ」が全てでした。
ご紹介したとおり、社員が皆「セブン・イレブン」で働いたのです。
新入社員は全員独身寮に入れられ、激務のあとも毎日のように
深夜でも先輩たちと酒も飲みました。
おまけに休みの日にも同僚とゴルフです。
野村證券こそが生活そのものでした。
四六時中一緒の生活です。
その中で考え方まで「洗脳された」というといい過ぎでしょうか・・・。

だから、入社して5年も経つと、誰でも酒のせいで「小太りになり、」
市況を画面で毎日見るから、「眼鏡をかけ、」セールスのせいで
「大声を出すように、」なって、結局は皆同じような顔になってしまうのです。

さらにいうと、社員は誰でも
「酒は強いし、カラオケがうまくて、ゴルフが得意・・・」
そういう、「金太郎アメ」に自然とならざるを得なかったのです・・・。



夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その9
2009.11.16

横浜での支店営業のお話の前に、その当時の野村證券のことを
少しだけご説明しておきましょう。

私が入社する前の大昔のことですが、野村證券の中興の祖と
言われた奥村綱雄という有名な社長さんがいました。
その奥村元社長が標榜した
「ダイヤモンド経営」
という有名な言葉があります。
これは、多面体にカットされたダイヤのように、
多様な人材がそれぞれ個性を発揮して光り輝く経営を
目指したことでそういわれます。
確かに、私が入社した頃は個性的な経営陣が
多かったと感じています。
本当に私が就職が決まった時の役員面接は
役員からオーラを感じました・・・。

でも、その「ダイヤモンド経営」に相対する言葉として
これも野村證券を象徴する有名な言葉として
「金太郎アメ」
ということがいつ間にか言われるようになりました。
どこを切っても同じような顔が出てくる金太郎アメだと・・・。

これから、私のお話はバブル時代に突入しますが、
当時はすでに業界内で「ガリバー」と呼ばれるほどの
大証券会社でした。
国内では本当に敵がいない。そう社内でも皆思っていました。
今から思えば、個性的な多様な人材がいるより、
経営者の言うことを素直に聞く、金太郎アメの人材の方が
巨大戦艦の舵取りが楽だったのかもしれません。


事実こんな経験がありました。
結婚してすぐの頃、支店対抗野球大会がありました。
それに奥さんを連れて行ったとき、ビックリして
私にこういいました。

「支店長の顔がほとんど同じ・・・。」
そうなのです。
確かに当時の支店長は、丸顔で小太りで、眼鏡をかけていて
ギロッとした目、それで七三に髪の毛をピチッと分け、
そして声がやたらでかい・・・。

そんな判で押したような支店長が多かったと思います。
これがまさに後日、世論で指摘された、「金太郎アメ」だったのでしょう。

赴任した支店にも、その「金太郎アメ」が私を待っていました・・・。



夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その8
2009.11.13

相場が良くなると本社スタッフを増やし、相場が悪くなると
営業をテコ入れするために支店の営業マンを増やす。
戦後証券会社はそれを繰り返してきたのかもしれません。
暴落のあとで、私は本社から支店の営業に戻ることになりました。

ただ、私にとって、せっかくの本社勤務が一年で終わることに
ショックを受けました。
ようやく、自分の適性にあう、安住の地を見つけたのに・・・・。
コンピュータを駆使して資料作りをするという
最先端の仕事に喜びを見つけていました。

次の赴任地は横浜のある支店です。
「また営業か・・・・」
そう正直思いました。

商売は営業が基本です。
どんな会社でもそうでしょう。
証券会社でも当然営業は基本中の基本です。
当時は営業で頭角を現したものが出世をするのが決まりでした。
よって、営業課長、支店長という出世コースを登らなければ
会社にいる存在価値がないようにも思われていました。

私も入社して5年目。それなりに会社におけるポジションが
分かりつつある時でした。
でも正直言って、5年で4回の異動は多すぎました。

「自分の適性を会社は見てくれているだろうか・・・」
そういう不信感はその後ずっと残りました。
証券会社特有の相場に左右されるという宿命と
それに振り回されている自分を感じました。

このときは、「脱サラ指数」は急激に上がりましたが
ただここで辞めようとはまったく思いませんでした。

それを踏みとどまらせたのが何かは、もうお分かりですね。
前にご紹介した
「子はかすがい理論」
です。
物心つきだした娘は、まさにかわいい盛りの2歳くらいでした。

「この子や家族のためにも辞められない」
そう思いました・・・。

「またここで頑張ろう!そしていつか支店長になろう!!」
そう意気込んで支店に赴任しましたが、
やはりトンでもないことが私に待っていました・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その7
2009.11.12

昨日つい筆を滑らせてしまいましたが、
「朝の7時から夜中の1時までのセブン・ワンで働きました。」
何て書くとマズイですかね。

税理士という商売をしていると、労働法など勉強することもあります。
でも20年前のあの頃は、不思議とそんなことはどうでもよかった。
「滅私奉公型の労働」というのですか。
日本の高度成長を支えたのは勤勉なサラリーマンだった訳です・・・。
確かに基本給より残業代の方がはるかに多かったかもしれません。
(これも内緒かな・・・)
ただ残業代が欲しくて遅くまで働いた訳でも、
また強制的に働かされた訳でもなかったのです。

朝から晩まで机に向かって、資料作りしたり、文章を書いたり、
コンピュータに向かうことはまったく苦にはならなかったのです。
「これが自分の得意分野だ・・・」

自分の会社の中で生き残る場所を見つけたようで
喜んで働いていました。


実はあとから知った話ですが、このとき会社は私に対して
「吉田は背も高いし声がでかいので、場立ちを経験させて
もっと株を勉強させた方がいい」
そんな声があったそうです。
「場立ち」とは、取引所内で身振り手振りをして売り買いを成立させる、
あの職業です。
手のひらを向こうに向けると「売り」でこっちに向けると「買い」
有名なのは、三本指を立てて頭を越すポーズをとると「三越」です・・・。

今では証券取引所がすべてコンピュータ化されてしまったので
もう無くなってしまった職種です。
やはり証券会社にも、当時も「株屋的な」体質が根強く残っていて
株を理解するには現場が一番のような雰囲気が実際にありました。

場立ちの職業は朝5時すぎに会社に来て、情報収集打ち合わせ、
そして午後3時の取引所終了とともに仕事は終わります。
まるで毎日、早朝勤務の「港湾労働者」みたいなものです。(失礼!)
本質的に株がキライな私は、正直そんな仕事は絶対にやりたくなかった。

しかも何より、このアナログの前近代的な職業は
いつかなくなるような気が本当にしていました。
これからはコンピュータの時代だ。そんな予感もあったので
嬉々としてコンピュータによる資料作りに精を出していました。

でも会社勤めとは思うようにならないものです。
やっと見つけた安住の地から、早くも半年ほどで
また異動をすることになります。
まあサラリーマンとはこんなものですね・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その6
2009.11.11

「脱サラして良かったですか?悪かったですか?」
よくその結果だけをいきなり聞かれることがあります。
本当に良かったかどうかは、その人の考え、生き方によって違いますね。
それこそ、その方が死ぬまで分からないのではないでしょうか・・・。
もう少し脱サラ編を続けます。

入社4年目の1987年10月、ブラック・マンデーの大暴落を
私は経験しました。

「それで株がキライになって証券会社を辞めたのですか?」
そう思われる方も多かったのでしょう。
確かに株の怖さを知ったのは事実ですが、でも、ここでもしそれだけの
理由で辞めていたら野村證券に入った意味がなかったのでしょう。

せっかくサラリーマンになったからには、いろいろ経験してから
脱サラするべきだと、これは「脱サラ評論家」としての持論です。
本当に「仕事の経験」と「人脈作り」が大事だと感じます。

また今となっては思いますが、あの時は大暴落で大変でしたが
大暴落が私の人生の転機となったのもまた事実です。
そういう意味で大暴落があって良かったのかも知れません。

なぜなら、その後すぐ、会社として当然かもしれませんが、
証券会社の本社にも大幅な機構改革がありました。
せっかく「花形ディーラー」になる可能性があったのに
その道が立たれた訳ですが、次に配属された部署で、
自分の特性を知ることができたのです。

実は、そのあとは、本社の中の企画のような部署に
回されました。
暴落後の反騰相場と結びつくような資料作りが
主な仕事でした。

昭和の時代ですから、まだ今のようなパソコンなどありません。
それでも会社の片隅には高価なコンピュータがあり、
そのコンピュータで東京証券取引所と連動したデータを
引っ張りだして、来る日も来る日も資料を作り続けました。

「こんな暴落はありえない。必ず反騰相場が来る!」

要するにそんな資料でした。
そんな資料を朝の7時から毎日終電の1時くらいまで作り
続けました
あの当時、よく証券会社は「セブン・イレブンで働く」といわれましたが
セブンイレブンどころか、「セブン・ワン」でした。

あの頃は若かったし体力もありました。
でも何より、「こういう仕事も面白い!」
自分で自分の適性を発見した喜びのほうが大きかったかもしれません。

まだエクセルもない時代です。確か「ロータス 123」(これも古い!)という
ソフトをあれこれ悩みながら操作していたのも思い出します・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その5
2009.10.30

時はまさにバブル前夜。
東京本社のディーリング・ルームは活況を呈していました。
やはり世界を相手にしている東京です。

地方の営業店に比べたら、本社のスタッフが皆優秀に見えました。
なぜか国立大出の頭の良さそうな人たちが偉そうにしていました・・・。
私立大卒体育会系の私としても多少気後れしたものの、
何より結果が問われ、それこそつまらない学閥などありえない会社
だったので、ここでも必死にトレーダーの仕事に取り組みました。

トレーダーというのは、注文を仲介するのが仕事ですが、
株価というのは、当然日々上がり下がりしますね。
しかも相場観というのは人によって違います。
その銘柄の株価を高いと思う人もいれば、安いと思う人もいる。
その情報を仕入れ、予測しそれを仲介するのが
トレーダーの仕事なのですね。
高いと思う人には売ってもらって、それを安いと思う人に
仲介する。その両者の橋渡しをするとともに会社としての利益も
確保する。
それがうまくいくと「トレーダー冥利」を味わうことができるのです。

あれほどキライだった株も、何となく仲良くしてくれている
ように感じていました。
相場の世界はこんなものか・・・。
仕事がまた面白く思えるときでした。

でも仕事というのは難しいものです。
ここで相場の本当の怖さを知る時がやってきました・・・。
これも古いお話で恐縮ですが、1987年10月19日に起った
有名な事件です・・・。

あの「ブラック・マンデー」と呼ばれた大暴落の日です。
日経平均が一日で3,800円、なんと15%も大暴落しました。
本社の大ディーリング・ルームには、壁面に株価を表示するボードが
あり、上昇すると赤色に、下落すると緑色に変わるのですが、
全面緑色、まさに「オール・グリーン」です。
あのとき携帯カメラがあれば、必ず写真でも撮っていたでしょうけど、
記念を残せなかったのは実に残念です。
でも今思えば、実に貴重な経験でした。

「これが相場の世界か・・・」
全面緑色の株価ボードに立ち尽くしたあの日・・・。
もう20年以上も前のお話なのですが、
あの緑色が今でも脳裏に焼きついてます・・・。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その4
2009.10.29

大阪の街がいくら好きになったからといって
やはり仕事が面白くなければサラリーマンとしての生きがいは
得られないですね。

株のキライな証券マンとして、ここは心を入れ替え、
株式の勉強を必死になってやりました。
本社部門のトレーダーなのですから、当然株に詳しくなければ
勤まりませんからね。

ではここで「株式の極意」を伝授しましょうか。
普通の税理士のブログなんかで、こんなお話は聞けません!?

当時からその相場観に一目おかれていた有名人で
その後大手の投資顧問の社長さんを渡り歩いた
真の「相場のプロ」から社内の研修で、聞いたお話です。
ただ20年も前のお話なので現在当てはまるかどうか・・・。
その研修で

「株を理解するには四季報をすべて暗記しなさい!」

そう言われました。
四季報というのは上場企業の業務内容から業績予想まで
網羅的に書かれている本です。
当時の上場企業数が2000社くらいだったでしょうか。
実際は四季報を全部暗記できる人はなかなかいないでしょうから、
それをよく読めということなのでしょう。

私も全部暗記はもちろんできなかったですが、
かなり上場企業の中味の勉強しました。
それとトレーダーとは企業名を社内的に、すべて証券コードで呼び合うので
その番号まで全部暗記しました。
今はもうすっかり忘れてしまいましたが・・・。

また、株価のチャートも勉強しました。
株の上がり下がりを書いたグラフをチャートというのですが
そのチャート分析することで、株価の予想もある程度できるのですね。
それと株式の売買の出来高との相関関係もあるのです。
これを公開すると守秘義務違反?かもしれないので
これくらいにしておきましょう。

それくらいに勉強しましたが、どうも株はやはり分からない。
ただ相場を扱う職業もそれなりに面白いなと思うようになりました。

株価の上昇局面では、社内はお祭り騒ぎのように活気が出るのです。
トレーダールームは大声で怒鳴りあっているようで、
本当にワクワクするような仕事としての喜びを感じました。

しかし、ようやく仕事に喜びを覚えるようになったものの、
会社というのは自分の意志とは違った行動に出るものです。

数ヶ月たって、急に東京本社行きを命じられました。

「大阪という街が気に入っていたのに・・・」
「何と人使いの荒い会社だろう。身重の奥さんを二度も引越をさせるとは・・。」

東京本社のトレーダーに抜擢されたというのは聞こえは良いのですが
その実、バブル前に急拡大する東京市場の本社スタッフの
人手不足が原因だったのでしょう。

それでも、世界のマーケットを東京マーケットが動かしていた時代でした。

「東京マーケットで一旗上げてやる!」
そう意気込んで東京に向かう新幹線に乗り込みました・・・。



夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その3
2009.10.28

脱サラ指数は急上昇したものの、それを踏み留まらせることが
ありました・・・。

「脱サラ評論家」!?としてまた今日も脱サラを目指す方のために
金言を差し上げましょう。

「子はかすがい」
ということです。
よく夫婦間の関係に使われる言葉ですが、これは会社と従業員との
関係でも当てはまるのではないかと思います。
実は、私は転勤の前年に結婚していて、最初の子を授かっていました。
「生まれてくる子のために頑張ろう!」
やはりそう思うものです。
奥さんの大きなお腹を見るたびに、仕事が多少自分の意図と違っても
「どんなことがあっても会社は辞められない!」
そう感じていました。

またこれも脱サラ評論家としての研究成果?ですが、
入社して早々辞める方は、やはり独身の方が圧倒的に多いようです。
その理由は、やはり独り身ですから、最近は結構安易に辞めてしまう
のですね。
「こんなはずではなかった・・・」
「自分の目指す道は・・・」
こう追い求めてしまうものです。

ちょっと脇道にそれますが、(いつものことです・・・)
税理士を目指して会社をそれこそ3年くらいで辞める方も結構います。
若手の税理士に独身が多いのもうなずけますね。
20代で辞めて試験を目指すのですから、合格するまで数年間、
さらに一人前に食えるようになるまでの間、やはり独身です。
内緒のお話ですが、この業界では40歳前後でようやく結婚する人も
多いのですね・・・。


お話を大阪本社の債券部のことに戻しますが、
私の脱サラ指数が一時的に下がったことで、新しい職場で必死になって
仕事をしました。

それと大阪という街が本当に新鮮でした。
何といっても食べ物が旨い!まさに「食い倒れの街」です。
毎晩のように先輩に連れられて、「キタ」や「ミナミ」に繰り出していました。
南千里に住んだのですが、緑が多く本当に良いところで
休みになると神戸まで行ったりして、食べ歩いていました。
そんなこんなで仕事よりも何より、大阪がまず好きになったのですね。

ただ、大阪の方がこれを読んで気を悪くしないで下さい。
関西弁というのは正直ついていけませんでした。
河内弁でしゃべっている同僚の女性が何を言い合っているか
さっぱり分かりませんでした。
仕事中にマンザイでもしているかと本当に思っていました・・・。

でも大阪は今でも大好きな街です。


夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その2
2009.10.27

「3日、3月、3年の法則」
これは以前ご紹介した誰でも一度は会社を辞めたいと思う周期です。
これは私の造語ですが、もう1つお勧め?の造語。
「脱サラ指数」
脱サラしようというボルテージを示す指標です。
100%は辞表を叩きつけた時です。
誰でも潜在的に10%や20%ありますよね?
「こんな会社辞めてやる!」
ふと思いませんか?
朝に満員電車に乗る時や、日曜日の夕方にサザエさんが始まると
この指標は必ず上がります・・・。

やはり私もこの3年目に脱サラ指数急上昇の危機がありました。
最初の転勤です。
どこの企業でも、最初の赴任地は現場を経験させて、
それから本人の適性を見て・・・。
というのが一般的です。
私の勤務していた野村證券も例外なくそうしていました。

ありがたいことに、会社側は私の適性を見てくれていて、
次の赴任地を決めてくれていたのでしょう。
その赴任地は大阪本社の「債券部」でした。
これは実は私の希望した先でもあったのです。
ここでもし、意にそぐわない転勤があると、やはり「脱サラ指数」は
上がるのですね。
最初の3年間で、自分は株式営業には向いていないと感じていました。
どうも株が好きになれない・・・。
これは本音です。
その点、債券は好きでした。
「自分には債券が合う。次の赴任地で債券をもっと勉強して
本当の債券のプロになろう!」
債券の売買をボンド・トレーディングといい、それを扱う人を
かっこいい言い方で「ボンド・トレーダー」といっていました。
本当に高額年俸で外資系に引き抜かれる人も多かった時代です。
ですので、そのときの夢は
「日本一のボンド・トレーダーになろう!」
そう考えていました。

でも赴任初日。衝撃の事実が待っていました。
所属が債券部ではあるものの、その中の「転換社債課」でした。

転換社債は、その当時は大きなマーケットがあったのです。
しかし、その後その市場が商法改正などもあり、一気に縮小して
しまいました。多分ご存じない方も多いでしょう。

転換社債とは、その文字通り、株式に転換できる社債です。
株価の上昇に合わせて債券も値上がりします。
つまり、株の売買とそれほど変わらないのです。
ボンド・トレーダーになろうと意気込んで赴任したものの
また、「好きでもない」株式と付き合うことになってしまったのです・・・。
一気に私の脱サラ指数が上がります・・・。



夢をかなえるゼイ 続・脱サラ編 その1
2009.10.26

夢のお話が続いてきたので、また人気シリーズ?を復活させたいと
思います。

このブログを始めて1年以上にもなりますが、
最近、当事務所を訪れる方が、私のことを非常によくご存知のようなのに
驚いています。
やはりこれだけ、あれこれ、しかも好き勝手にアップし続けていると
かなり私のことが分かってしまうのでしょうね。

他のブログのことは知りませんが、私としてもできるだけ、
正直に自分の心情なり、考え方を書いてきたつもりです。
(つい、書きすぎた面もあったかもしれませんが・・・)
それで自然に、私の「素の」人間性が出てしまうのでしょう。

先日も野村證券の後輩が、いきなり尋ねて来ました。
しかも、このブログを、かなり丹念に読んでから来たようです。
「でも先輩はなぜ野村證券をやめたのですか?」
「なぜ税理士を目指したのですか?」
ずばり聞かれてしまいました。

そうなのですね。そのあたりまだ書いていなかったのですね。
昔話をやり出すと、あれこれ脱線して、余計なことまで
つい書いてしまうから、肝心なことに触れていなかったのです。

またしばらく、この「昔話」を書いてみようと思います。
以前は、ブログ・コンサルタントの方から(そんな職業もあるのです・・・)
「アクセス増やすには・・・・」
とよく私がこのブログで触れることを何度も言われた経験があります。
昔話なんてもってのほからしいです。

でも最近は、そんなこと拘らないのですね。
別にアクセス数など、気にしないわけではないですが、
別にいいのです。
好き勝手書いて、自分のことをアピールするべきだとも思うのです。
分かっていただける方だけに読んでもらえれば
それでもいいのではないかとも思うのですね。

実は、ちょうどブログを同じ時期に始めた顧問先の方から
「ブログから大きな商談が来ました・・・」
先日そう言われました。
これは本当にうれしかったですね。
現代では、やはりブログもバカにはできないのです。
本気に商談をしようとする人は、必ず必死気なって
読んでくれるようです。
この方のように、自分の主張を曲げずに繰り返しアピールし続ければ
いつか分かっていただける人が現れるのでしょう。

・・・・そんなことで、また得意の昔話を始めたいと思います。
先日来悩んでいる、「自分の夢」を確認するために・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その21
2009.04.03

初めての赴任地高崎での勤務は3年で終わりました。
新入社員としての洗礼から、社会人としての研修、営業の初めての経験など
さまざまなことをこの地で学びました。
遠くに榛名山を見ながら必死に営業した思い、
本当に自分の原風景です。

ところで4月のこの時期、迎える新入社員に向け、
「オードリーの春日のように」偉そうによく言う私の言葉で
3日、3月、3年の法則
というのがあります。
会社で新人を迎えると必ず訓示として後輩に言っていました。
これは誰に聞いたお話ではなく、私の造語です。
その意味は、
「どんな人でも入社して3日、3月、3年の節目で一度は辞めたくなる
でもそれを乗り越えて頑張って欲しい」
これは本当に私のこの高崎支店での実体験です。

本当に3日でやめる人がいるかどうかは分かりませんが、
自分ではこの3日で社会人としての洗礼を受けました。
学生気分が吹っ飛んだ3日間でした。
3ヶ月というと、丁度新人研修が終わって、現場に出される時期です。
誰でも、ここで世間の冷たさや営業のつらさが分かる時です。
3年と言うと、丁度最初の移動がある頃ではないでしょうか。
初めての移動というのは誰でも結構ショックなものです。
でも、その節目に自分として成長したと本当に思っています。

3年目でこの野村證券を見切って、税理士でも目指せば良かったのかも
しれませんが、やはり、その節目の3年目で踏ん張り、
その後新たな職場で頑張ったことも、また自分自身を成長させてくれたと
本当に思っております・・。

次の新天地はあの商売の激戦区大阪でした・・。
ここからまた波乱があるのですが、
つい調子に乗って、昔話を長くやりすぎました。
読んでいる人も疲れたでしょうし、書いてる本人も「少し熱が入りすぎて」
疲れました・・・。
なかなか脱サラしなくてすいません。

そのうち「続・脱サラ編」をアップしますので、
取りあえず「炎の新入社員編」はこれで終わります・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その20
2009.04.02

証券営業に簿記の研修。
これがその後定着しなかったことを見ると、単に実験的な研修だった
のかもしれません。
ただ、この研修のおかげで、「借方と貸方」の意味くらいしか知らなかった
商学士」も一応簿記というのを知っていると自慢できることには
なりました・・・。
その後、ここで簿記を勉強したことが数年後に
税理士を目指すことのきっかけになったのは事実です。
簿記会計について興味を持って勉強し、その面白さにも目覚めたのです。
単なる簿記3級程度ではありましたが・・・。

実はそのころ証券会社では「証券アナリスト」という資格が
脚光を浴び出していた時でした。
結局、簿記の研修はアナリスト試験に振り返られたのだと思います。
しかし、今はその証券アナリスト試験もなくなってしまったのでしょうか。
FP(ファイナシャル・プランナー)試験に取って代わられています。
証券会社自体もいろいろ試行錯誤していた時期なのでしょうね。

確かに、その頃から証券会社自体の体質が変わりつつあったのは
事実でした。
「義理・人情・浪花節」の「株屋」から「金融マン」に脱皮しようと
もがいていた時期なのでしょう。
単なる株の予想屋ではなく、
取引先へ会社の財務内容を教えてもらって、それに基づいて
提案営業するような「画期的な営業手法」
を目指そうとでもしていたのでしょうか。
銀行に負けない「ハイテク手法」を考えていたのでしょう!?

ただ、会社の掲げる理想的な目標とは裏腹に、営業店の現実では
「上がります。儲かります。」
という古い株屋的体質が根強くはびこっていたのも事実でした。

3ヶ月も「理想的な研修」を受けましたが、支店に戻ると
まったく変わらない日常があり、せっかく学んだことはあっという間に
忘れ去られてしまったようです。
研修課長スイマセン・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その19
2009.04.01

20数年前の野村證券での簿記の研修がどんなものであったか。
これを公開することは守秘義務があるのでしょうか。
まあもうだいぶ前のことですし、時効!?でしょう。

何といっても証券会社における初の簿記研修!
どの程度の内容であったかというと、
内容はなんと!簿記3級程度でした・・。
経理担当者を集めたわけでなく、営業マン向けの研修です。
それも初めて「簿記」を習う「おじさん」向けの研修です。
いい年をしたおっさん達が、
「借方 仕入 貸方 買掛金・・・」
なんて習うわけですから、皆一同ちんぷんカンプンな訳です・・・。
今思い出しても懐かしいですが、確かに「こっけいな」光景でした。
それと、その研修課長の厳命で
「研修期間中に簿記3級を絶対に受かること」
というハードルを与えられていました・・・。
そういう社命があったせいか、悪戦苦闘して必死に習っていました。

でも教える側が、若いホヤホヤの会計士の人でした。
多分野村證券の人も「簿記」をどう教えていいのか分からなかったのでしょう。
いくら知識があるとはいえ、やはり教えた経験のない会計士の先生では
荷が重かったのでしょうか。
教え方は正直イマイチでした・・・。
会計が分かっていることと、会計を教えられることはやはり違うのです。
ただ、この経験はその後税理士として簿記講師をやった時に
かなり生かされました・・・。

簿記3級というのは、ご存知の方も多いとは思いますが
高校生でも楽に受かる試験です。
でも、頭の固くなったおじさんたちも必死になって勉強していました。
努力の結果、なんとか全員クリアしたと思います。

「何だ!今税理士として偉そうにしている割には、
最初はやっと3級受かったくらいのレベルか・・」
と突っ込まれてしまうかもしれませんが、
これは事実ですので正直に申し上げたつもりです。

ただこれがすぐ脱サラ=税理士に結びついた訳では
まったくありませんでした・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その18
2009.03.31

入社3年目で何となく営業というものが少し分かってきたのかもしれません。
でも法人課に移動したおかげで自分の人生を左右するような出来事に
遭遇しました。(少しオーバーか・・・)
実は、法人課に移ったことで、社内の長期研修に選抜されたのです。

当時、前にもご説明したように、証券会社は「株屋」的な古い体質が
色濃く残っていました。
とにかく「根性!」みたいな・・・。
つまり「頭で考えるより、身体を動かせ」という特異な営業体質です。

証券会社では「義理・人情・浪花節」という言い方も当時ありました。
結構このフレーズ個人的は好きだったのですが、
そういう古い体質とともに、結果がとにかく重要視されました。
「間接金融から直接金融へ」
「銀行に追いつき追い越せ」という風潮がありながら
一方で、過程はともかく、常に「結果」が求められる体質だったわけです・・・。
要するに、そういう体質から、当時は研修などあまり重要視されなかったと
いうのも言いすぎでしょうか。

しかし、その頃の野村證券の古い体質だけでなく、研修制度までも
変えようとする若き課長さんがいました。
その後あっという間に偉くなった方です。
(あまりに有名人なのでもちろん匿名で・・)

私自身もその方を尊敬もしていました。
その方が、長期の研修制度を多分始めて導入したのではないでしょうか。
3ヶ月間にも渡る長期の研修制度でした。
新入社員研修ではなく通常の営業社員向けの研修です。
3ヶ月間、研修寮に寝泊りして詰め込まれます・・・。
結構キツイ研修だったのですが、中には入社10年選手の方や
トップセールスマンのような方もいてかなり刺激をうけました。
しかも3ヶ月間も寝食一緒ですからかなり仲良くなります。
週末に飲みに行くのが本当に楽しみでした。
初めて「銀座」で飲んだのもその頃でした・・。(このお話はそのうち・・・)

しかし、そこで私の人生を左右する研修を受けました。(また大げさか・・・)
そうです。そこで初めて「簿記」の講義を受けたのです・・・・。
証券会社内で、初めて簿記の研修が行われたのです。(多分です)
株屋さんに「ハイテク」教育が初めてされたのです!?
まさに画期的な、自分の人生を変える研修でした・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その17
2009.03.30

移動した法人課というセクションは県内の金融機関を主に担当していました。
つまり群馬県の信用金庫や信用組合、農協などです。
今では合併が進んでかなり数が減ったらしいですが、
当時は中小含め結構多くありました。
それを車で毎日のように営業回りです。

また営業の忘れられないお話をしましょう。
合併されてもう無くなってしまった信用金庫なのですが、前橋の方に
ある信用金庫がありました。
実は前任の担当者はトップセールスマンでした。
それを3年目の若造が引きついだものですから、本当に苦労しました。
相手は50歳くらいの担当者。自分の親位の年ですので、
正直何と言っても話が合わない。

高崎から車で40分くらい。毎日のように顔を出しました。
担当し始めたのが6月くらい。それから通っても、通っても
なかなか商売に結びつかない。
かなり堅物の担当者で本当にまともに話もできない。
上司からそれでも毎日通えという指示です。前任の担当者は
結構その信金で営業成績を上げていました。
こちらとしても、かなりのプレッシャーでした・・。
「何やっているんだ!」当然怒られてばかり・・・。

それでも担当者と話をあわせるために、こちらも必死になって勉強しました。
金融や為替の動向など、野村総合研究所や東洋経済の雑誌など
話のタネに何か役に立つような資料も持っていったつもりです。
真夏にも必死になって通いましたが、それでもなかなかまともに
話もできない。
この時も本当に悩みました。
「自分はやはり営業向きでない・・・前任者には絶対勝てない・・・」
相手の懐に飛び込めないもどかしさを感じていました。
夏が過ぎ秋も深まってきた頃でしょうか。
その時はもう紅葉の季節になっていました。
その信用金庫に入る直前、赤城山の燃えるような紅葉が目に入りました。
本当に見事な紅葉でした。それは今でも目に焼きついています。

担当者に会った時、自然に言葉が出ていました。

今日の赤城山はすばらしいですね。」

堅物の相手が初めて笑顔を見せました。
多分地元でも一年に一度くらいそんなすばらしい赤城山が拝めるのでしょう。
それを褒められて本当にうれしかったのだと思います。
向こうから地元の自慢話をし始めました・・。
「これか・・・」
初めて相手の懐に入った感じがしました。
それからほどなく、その信用金庫は稼動し出しました・・・。

自分のセールスマン時代の究極のセールストークだったと
たまに懐かしく思いだされます・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その16
2009.03.27

入社3年目で早くもターニングポイントを迎えました。
2年間個人向けの証券営業やりましたが、どうも成績が芳しくない・・。
理由は分かっていました。
先日アップしたように、「口がうまくなく」性格的に営業向きではないということと
根本的なお話なのですが、どうしても株が好きになれなかったことです。
高校時代から証券会社に憧れ、大学では証券論まで専攻しながら
どうしても株が好きにはなれませんでした。

証券会社では株が好きな人の集団です。
自分の好きなものだから他人にも勧められる。
普通はそうなのでしょう。
でも私の性格からなのでしょうが、株が上がったり下がったりすることの
意味がどうしても納得できない。
自分で納得できないものはやはり他人には勧められない。

できる営業マンというのは、納得できないものでも、何でも売ってしまう。
「この株は上がるものだ」とマインド・コントロールして売ることができる。
そこに根本的な差を感じていました。

株については結構勉強もしました。
チャート分析もやったし、日々の出来高を見て上がりそうな株の
タイミングを掴んだり・・・。(これ自慢ではないですがものすごいノウハウ)
あれこれやりましたが、やはり株というものは理解できませんでした。

3年目になり、個人向けの営業課から、法人主体の法人課への
支店内移動がありました。
なぜ移動したかというと、債券の営業が得意だったからなのです。
「上がります。儲かります。」という株のあいまいな営業より
確定利付きの国債を売る方が自分の性分に合っていたのでしょう。

でも、最近でもお客さんから株のこともよく聞かれます。
野村證券にいたことを知っているからこそ聞いてくるのでしょう。
あのころは必死に株式相場欄を見て研究していましたが
相場観のなくなった今は、正直分かりません。

「自己責任が原則なのですよ・・・やめた方がいいですよ。
それより本業にまい進して下さい。」

逃げるわけではないですが、そういうことにしています・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その15
2009.03.26

でも誤解のないように書いておきましょう。
営業がイヤだから、ノルマがきついから会社を辞めたのではないと。

たかだか4年くらいしかやっていないので、営業について
偉そうに語る資格ないかもしれませんが、営業と言うのは
本当に商売の基本なのですね。
今まで税理士としても、さまざまな商売を見てきましたが、売上を上げるには、
つまり利益を出すには、やはり営業力がなければダメなのです。
「中小企業の社長さんは、トップセールスマンではなくてはならない。」
これ私の持論です。
しかも、営業部長でありながら、総務部長兼経理部長で庶務も・・・。
要するに社長は何でもできなければならないのですね。
ただ会計事務所が仮に経理部長の代わりを勤めたとしても
やはり営業部長は社長さんがやらなければならない・・・。

そういう営業の重要性も学びましたが、一方で営業のツラサだけでなく
喜びも味わいました。

こんな経験もしました。
「こんな辛い営業、何が楽しいのですか?」
支店内のある酒席で酔った勢いで、先輩に真顔で聞いたことがあります。
その先輩は
「営業は確かに10あれば9苦しいかもしれない。でも1喜びもある。
それが楽しいし、その1の喜びを味わいたくて努力するのだ・・・」

まだ若かった私は
「そんなものかな・・・でも9苦しいのもイヤだな・・」
と思ったことも覚えています。

でもその後、1の本当の喜びも味わうことになります。
確かにそれが忘れられないのでしょう。

前にアップしましたが、群馬県のある農協に2億円の国債を売りました。
約定して農協の前の公衆電話から「震えながら」上司に報告したこと
本当に今でも覚えています。
また、投資信託を支店のノルマ全額に相当する3億円を一発で売って、
支店に帰社した時、全員からスタンディングオベーションを受けた時・・・。

今でも覚えている本当に忘れられない営業マン時代の楽しい思い出です・・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その14
2009.03.25

証券営業がいくら夢を売る商売と言っても、やはり難しいものでした・・・。
自分の性格からでしょうが、どうしてもお客さんにうまいこと
言えない・・・。
結局のところ営業成績に直結してきます。
営業成績の上がらない営業マンは本当にツライものです。
今思い出しても、懐かしさより、怒られていてばかりのツライ思い出が
蘇ります・・。
黒いカバンをぶら下げて途方も無く群馬県内を駆けずり回った・・・。

根っからの営業マンというのがいるのですね。
本当に口がうまい。
同僚や先輩を見て
「これは敵わない・・・」
本当に思いました。
世の中には「口から先に生まれてきたような方」が
本当にいるものだと。(失礼!)

株式営業は難しいものだと痛感しだしました・・。
それどころか、証券会社はやはり自分の性格には合わない・・。
入ってから本当に思い悩みました。
結局それが数年後退職につながって行く訳なのですが、
ただ振り返ってみれば、辛かったけどこの営業マン時代は
本当によい経験でした。

でもその当時は必死でした・・。
とにかく営業課長が怖かった・・。
「バカヤロー!辞めちまえ!!」
「決めるまで帰ってくるな!」
土日外交、夜討ち朝駆けは当たり前。必死でした・・。
働かされたというか・・。

昔の営業はきっとそうだったのでしょうね。
こういう営業課長は、どこにでもどこの会社にもいたと思います。
鬼軍曹が・・・。

たまに懐かしく思い出されます。
当事務所にもあの「鬼軍曹」がいればもっと営業成績が
上がるのでしょうね!?

「バカヤロー!今月新規顧問先何件やったんだ!」
「お前なんか税理士に向いていない!辞めちまえ!!」
「顧問先獲得するまで帰ってくるな!!・・・・」


(WBCの侍ジャパン。夢をかなえてくれてありがとう・・・)


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その13
2009.03.24

麻生さんにいつまでも文句言っても仕方ないので「株屋」の営業のお話を。
高崎支店で3年の営業とそのあと横浜でも1年間、都合4年も
証券の営業をやりました。

税理士として営業のお話を「偉そうに」いうのは私くらいでしょうか・・・。
でも、せっかくの営業経験を何か役立たせたいし、
営業面で悩んでいるお客さんの何か良いアドバイスができたらと
常に思っています。

では、証券営業の何がキツカッタか。
これも本当によい経験をしたと思うので、少しご説明してみましょう。
また少し、夢のお話につながることでもあります・・・。(ちょっとコジツケ・・・?)

証券の営業も本当に、「夢を売ること」だと思っていました。
例えば私が車のセールスマンだったら、普通はパンフレットを見せて、
「この車の特徴はこうです・・・。他社との違いは・・・」
と営業するはずですよね。

では株式のセールスにはパンフレットなんてありませんね。
「××の株は・・・という理由で上がると思います。」
と口で説明するしかありません。
それを補足する意味で、金利為替など経済情勢の見通しなども説明し・・。
でもこれも全て口頭なのですね。
なお、今も昔もパンフレットなどの断定したもので説明することも
法律により禁止されているのですね。

ですから、車のセールスマンの方が楽ではないかとよく思っていました。
結局、自分自身を売り込むこと、つまりお客さんとの信頼関係を
構築することがまず大前提なのです。
そうしないと、確かに麻生さんのように「怪しい」職業とされてしまうのです。
怪しいどころか、「競馬の予想屋」と同じように「株屋さん」と
また言われてしまうのですね。

でも世の中では、競馬の予想屋と株屋を混同している人が
まだまだ多いのです。

でも、株の営業とはその「株式の夢」を売るのです。
面白いセールスだと思いませんか。
「この株式が2倍3倍、それこそ10倍にもなる夢」を売るのです。
今の経済情勢では想像もつきませんか。

誰でも自分の手持ちのお金が10倍になったら楽しいですね。
宝くじを買ったときの夢とも似ています。
「3億円当たったらどうしよう。」
そう買うときに夢を見ますね。

でも株式投資は、馬券や宝くじを買うのとは根本的に違う
そう自分でも信じて営業してきました・・・。しかし・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その12
2009.03.23

証券マンは昔「株屋」と言われたお話をし出したら、今度は麻生さんがまた
トンでもない発言をしましたね。
あまりブログで特定の方の名をあげてコメントを出しなくないのですが
「株屋は信用されていない。何となく怪しいよ」
この彼の発言には猛反発しておきましょう。

25年前は確かに「株屋」という単語が存在したのはご説明したとおりです。
でも、この21世紀にしかも、一国の首相がこう発言されるのは
やはり許せないのです。
自分の過去を汚された気がします。
ただ私はすでに証券マンを引退した身ですが、
証券会社はぜひ業界をあげて猛反発して欲しいと思いますね。
いっそのこと、自民党への政治献金を前面凍結くらい
したらどうでしょうか。(内緒)

これから、当時の「必ず上がります。儲かります。」という
大昔の「博打」のお話をしようとは思っていたところなのですが、
確かに昔、株屋という職業はあったかもしれません。
でも今や株式売買はインターネットが主流です。
しかも昔のようないい加減なことができないように、(これも内緒かな・・)
再三申し上げる「金融証券取引法」の大改正あったわけです。
その改正のためにどれだけ関係者が努力してきたか・・・。

また日本経済の発展のために証券会社の役割がどれだけ大事であったか。
古くはNTTの売り出しや、最近ではJRの売出しなど民営化のために、
また株式だけでなく、国の借金である国債を売るための努力を
どれだけしてきたか。
証券会社の資本主義経済での役割をぜひ改めて認識して欲しいと思います。

私もこの高崎支店時代に初めて発行された超長期国債(20年)を
必死になって販売したのを思い出しました・・・。。

また一方で、税制の面でも、「貯蓄から投資へ」という流れで
特に証券税制も大事な一役を担ってきたと思うのです。

麻生さんは多分「税制改正大綱」をよく読んでいないのかも知れませんね。
これも当然閣議決定しているはずなんですがね。
きっと「税制改正おおつな
と読んでしまうのでしょうね!?(これも内緒に・・・)


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その11
2009.03.19

入社して3年間はこの高崎支店で必死になって働きました・・・。
その当時は「税理士になろう」なんてコレッぽっちも、思いませんでしたが
「野村證券の社長にもなろう」なんても、まったく思いませんでした・・・。

営業やっていて、教わったことも本当に多かったです。
いろいろな方に出会い教わりました。
前にアップしたように、新社会人に少し言っておきたいみたいな
「小うるさい」中小企業の社長さんも当時は多かったです。
でも今思えば、そういう方々の出会いによっても
自分が成長したように思います。

また群馬県という地域性もよかったと思います。
群馬県は暖かい人が本当に多かったです。
その後転勤した大阪や神奈川とは比べ物になりません。(内緒)
「田舎」といったら失礼でしょうか。
都会にはない、のんびりとした土壌が私には合っていました。

そういう商工業の町や農家の方々にとっては、金融機関というのは
地元地銀であり、農協を指します。
資産運用で証券会社を選ぶというのは選択肢としては
普通にはありえないような時代背景もあったように思います。

証券会社=株屋 やはりそう見られました。
でも本人としては、
「銀行よ!サヨウナラ!証券よ!コンニチハ」
という啓蒙運動をやっているという気構えさえありました。

田舎の人に(失礼!)、「資本主義経済の仕組み」を教えてやろう!
それぐらいにも思っていました。
啓蒙運動の教祖であると、自分は布教に出向くようなつもりでした。
遠くに榛名山を眺めながら田んぼのあぜ道を駆けずり回って外交しました。

高崎支店にいた3年間、どこにでも外交しました。
所構わず飛び込み外交して、当時首相だった中曽根康弘氏の実家に
知らないで入ったこともありました・・・。
25年前は、クールビズなんか当然ですがあるわけもなく、
真夏にスーツに汗の塩が噴出しながらも走って外交していました・・・。

高崎から、前橋くらいは序の口で、館林や桐生までも。
また沼田(あの尾瀬の近く)や下仁田(こんにゃくで有名、
でもそれしかない田舎)にもよく行きました。
駆けずり回ったという方が適切でしょうか。

あの頃の私はどんな夢を追いかけていたのか分かりませんが
あの遠くに見えた榛名山がセピア色に懐かしく思えます・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その10
2009.03.18

一人で昔を懐かしがっていると
最近の証券会社のことをよく知っている方から
また突っ込まれそうですね。

「証券外務員の資格が無いものに証券の営業させるはずが無い!」と。
そうなのですね。
普通の方はご存じないのですが、結構証券会社というのは
法律に制約されて厳しいのです。
それが一昨年の金融証券取引法の改正により、さらに厳しくなりました・・・
実は証券会社に入社したものは必ず外務員資格を必ず取らせるのです。
要するに免許なのですが、その免許がないと何もできない・・・。
外務員資格がない者に対して、今では絶対そんなことさせないでしょうね。
でも昔は何でもあり!?だったのですかね。
ブログ書きながら気づきました・・・。(マズイか・・)
でも「名刺集め」というのは数十年前からあった証券会社での「伝統行事
だったのでしょう。
名刺集めとはいえ、証券のセールスのために出向くわけですから、
入社したばかりの新入社員であっても、そんなことはできなかったはずです・・・。
ましてや、資格の無い新入社員が電話による株のセールスなんか
絶対にできなかった訳です。
でもなぜか昔はやっていたのですね・・。(内緒)

やはり25年前の証券会社はまだまだ「株屋」的な体質が
多く残っていました。
これは本当に入社してから分かったことです。
資本主義経済を支えているのは証券会社だ!」
大学で証券論を専攻までして、意気込んで入社した割には
その後、「株屋と資本主義経済のギャップ」に悩むことになります。
でも、今思えばもともと「体育会系」の私には社風が
あっていたのかもしれません。
とにかく「根性」みたいな・・・。
以前ブログにも書きましたが、本当に毎朝6時に起こされて
マラソンしていました・・。

無我夢中で飛び込み外交を続けていたら。気が付いたら高崎から
前橋まで歩いていた!?なんてこともありましたね。
とにかくおかげで「ど根性」はついたのは間違いありません・・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その9
2009.03.17

人生で一番長い日の続き、実はまだあります。

初日からすばらしいお客さんに出会えてハッピーなスタートが切れた
だけで終わらなかったのですね。

夜の7時過ぎに疲れて支店に戻ると、心の中では
「もう遅いし、これで帰るのかな」とか
「何か歓迎会でもあるかな」
くらい甘い期待をしていたのですね。

でも、やはり証券会社というところは甘くは無かったのです。
それで終わらなかったのです。

いきなり電話帳をどさっと渡されて、
「今から株のセールスをするから・・・」
と電話によるセールスが始まりました・・・。
その株の内容もよく分からないのにいきなりセールスです。

「こんばんは。野村證券の吉田と申します・・・」
手当たり次第に電話して
「×× の株がお勧めです・・・」
何て始まったのです・・・。
いやはや参りました。
それが9時過ぎくらいまでやったでしょうか・・。

結局あれこれやって終業が10時過ぎ。
さすがに初日の緊張と慣れない仕事でもうヘロヘロです。
正直もう帰りたいと思っていると

「では、これから新人の歓迎会でもやるか!」
「えっ!・・・」

もちろん。断ることもできず先輩達から酒を飲まされました・・・。
本当に終わったのは12時過ぎ、本当に独身寮に戻ってバタン・キューです。

毎年4月1日。
あの頃を思い出し、自分のスタートの日だと本当に思います・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その8
2009.03.16

昭和59年4月1日。
自分の今までの人生の中で一番長かった日です。

社会人になっての初日に生まれて初めての「飛び込み外交
ほんとうに無我夢中でした。
でもやはり社会からの厳しい洗礼を受けました・・・。
「結構です!」
「もう来るな!」
「うるさいからいい!」
まあその程度のお話はまだまだ序の口なのでしょう。
その後営業でいろいろ経験したので思います。
でも生まれたての新人にはキツカッタ・・・。
暗くなるまで必死になって一件、一件回りました・・・。
なかなか話すら聞いてもらえません・・・。

でもその日は4月とはいえ、本当に寒い日でした。
群馬というと「からっ風」が有名ですが、その風も本当にコタエマシタ・・・。
新調した三つ揃えのスーツでも刺すような寒さを感じました。
しかも、足を棒にして回ったけどなかなか名刺すらもらえません・・・。
世間の厳しい風あたりにも余計寒く感じられました。

でも、日も落ちてこれで最後かなと思いつつ、ある町工場に入ったとき、
「寒いのに大変だね~。ストーブにでも当たっていきなよ~。」
その暖かい言葉忘れません。
出してくれたお茶も本当にうれしかった。
何を話したがまったく覚えていませんが、
「群馬にもいい人いるのだな~」しみじみ思いました。
おまけに、説明がまったくでず、パンフレットだけ渡した
中期国債ファンド」を翌日わざわざ店頭まで来て
大金で購入していただきました。
自慢ではないですが、野村證券同期中で「初注文」でした・・。

その後「飛び込み外交」を中心に数年やりましたが
これこそ営業の基本なんですね。
つらいこともありましたが、それはそれでよい経験をしたと
本当に思っています。

当事務所も駅前なので、4月にはいると「新人君」が
大挙して押しかけてきます。
「私コチラの地区担当の・・・」

「おうおう。また今年も来たか・・・」懐かしくなります。でも
「結構です!」ワザと冷たくあしらって反応を見ます。
あっさり引き下がられると結構がっかりしてしまうことすらあります。

「ダメだよ。足を扉に挟むくらい・・身を挺して扉を閉められないように・・・」
なんて実は心の中では思っています。
これも毎年の4月の楽しみでもあります・・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その7
2009.03.13

楽しかった学生時代のことをいつまでも書いていたら
なかなか「脱サラ」のお話に進みませんね。

社会人としての夢のお話もイヤイヤながら書いていきましょう。
ただ証券会社の悪口を書くのではなく、なぜ税理士という夢を描いたのか
ということを中心に・・・。

1984年(昭和59年)、私はあの野村證券に入社します。
ただ「野村證券の社長になろうという夢」(=うぬぼれ)は三日で
消えてしまいました・・・。
野村證券に在職した8年あまり。
私は人間的に本当に鍛えられたと思っています。
その意味で野村證券には本当に感謝しています。

4月1日、群馬県の高崎支店に赴任します。
そこで社会人としての洗礼を受けました・・・。
初日の出来事です。これもネタではなく実話です。一生忘れないお話です。

野村證券では当時新人は「名刺集め」という儀式を受けます。
要するに飛び込み営業です。
注文をもうらうまでいかなくても、とにかく相手の名刺をもらう・・・。
今ではそんなバカなことをいきなり新人にやらせることはなく、
数ヶ月の新人研修があるらしいですが、当時は本当にスパルタでした。
証券の「しの字」も知らない「生まれたての」新人が
洗礼を受けたわけです。
高崎駅からバスで10分くらいのところに、「問屋町」という
商工業者の密集している工業団地があります。
そこにいきなり連れてかれて、「今から名刺集めをして来い」という指令です。

本当にドキドキしたのを覚えています。
学生時代にアルバイトをしまくった私でさえ
いきなり知らない会社に飛び込むのはもちろん初めてで
本当に勇気が必要でした。
「いきなり入ってどうしよう」
学生の気分が抜けていない私は
戸惑いながら会社を眺めていました・・。
悩みながら歩いていると、とうとう問屋町の端まで来てしまいました。
そこに「大富スプリング」という会社がありました。
何故か今もその社名をハッキリ覚えています。

「ここから始めよう!」
スプリングという名前で、意を決して思いました。
まさに社会人としての「スプリング=飛躍だ!」
そう心に決めました。

会社の人がビックリするくらい大きな声で入ってやろう!
思い切りよくドアを開けて、腹の底から声を出しました。
そのあとの言葉一生忘れません。

「こんにちは!私!早稲田の!!!・・・?



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その6
2009.03.12

大学時代のことをあれこれ書いてきましたが
「先生がさかえ通りで安酒を飲んでいたのは分かりましたが
では大学時代いったい簿記会計をどれくらい勉強したのですか?」
と今度は突っ込まれてしまいそうですね。

夢のお話から脱線してしまいますが(いつものことか・・)
これも講演会で必ず私がいう「ネタ」なのです。
多少ハジをしのんでご披露しておきましょう!?

正直申し上げて、大学時代に簿記の授業には出たことはありませんでした。
ということは簿記会計をほとんど勉強したことはありません。
全国の税理士の皆様すいません・・・。

商学部なので、実は簿記は必修科目なのですね。
でも古き良き早稲田の黄金時代
本当に良い先生が多かったと思います!?
その簿記論で著名な教授は、常に出席を取りませんでした。
よって普段の授業はいつも数名しかいいません。
ほとんどの学生はサボっているようでした・・・。
よって、私もその教授には悪いと思いつつ(本当です)、
出席したことはなかった訳です・・・。
最初の授業と最後の授業で教授に会うくらいで、
ほとんどその教授の顔を覚えていません。

でも、その著名な教授は実に親切でした。
どんなに学生がサボろうと単位をいただけるのです。
というのは最後の授業で、試験に出す問題のヒントまで教えてくれました。
どんなヒントだったかはっきり覚えていませんが、要するに
借方と貸方の意味」さえ知っていれば、どんな学生でも
解けるような問題を出すと事前に教えてくれていたのです。

よって学生は試験直前に「借方と貸方の意味」を
必死になって覚えます。
どうやって覚えたかが重要なのです。それは
借方のリは左のリ
それだけです。
要するに借方が左側であれば、あとの貸方は右側なのです。
本当にそれだけ知っていれば誰でも解ける問題でした。

すいません。正直申し上げたつもりです。
その教授のおかげで、単位もいただけ、卒業もできました。
それで私も今偉そうに税理士やっているのです。
本当にいくら感謝しても足りないくらいです・・・。

ただ、講習会で必ずいうお話なのですが
「借方と貸方の意味は無意味です。そんなことはどうでもよいです。」
そう説明してから超簡単経理を説明することにしています・・・。

借方のリは左のリ
これは私の講演会ネタです・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その5
2009.03.11

証券会社のお話をしだしたら、日経平均がバブル後の最安値
更新してしまいましたね。
まさにドンピシャのタイミングでしたね。

昨日、「これからは証券の時代だ!」と意気込んで
会社を選んだと書きました。
これは本当に当時そう思っていました。
1984年のことです。ですのでもう25年も前のお話なのですね。
日経平均が1万円を越え、それからその後3万8000円の高値まで
駆け上ったのです。
連日株価チャートが報道されていますので
ご覧になっているとおりです。
自分の相場観経済を見る目を自慢しなければなりませんね!?
まさに私の睨んだとおり、間違いなくその後の数年間は
「銀行よ サヨウナラ。証券よ コンニチハ。」
だったと思うのです。

確かにその後、後悔した場面もいろいろ出てくるので、
結局訳あって退職した訳ですが
それはそれで面白い場面を多く経験させてもらいました。
夢のような=バブルのような 場面もたくさんあったのです・・・。

学生の頃の夢のお話に戻りますが、
では、学生の当時に、証券会社に自分の「」を託したのでしょうか。
もう25年前のことなのでハッキリとは覚えていませんが
そうとばかりにはいえないのでしょう。
「野村證券の社長になろう」という夢くらい思ったはずですが・・。

学生時代はいろいろ回り道したつもりですが、伊吹信介同様、
自分の「夢」を探し続けていた時代です。
ただ大学3、4年生となり、やはり現実を直視し始めたのです。
子供の頃見た夢をいつまでも追い続ける訳にもいかない
現実があるのです。どうしても就職して働かざるを得ない・・。

でも「さかえ通り」で安酒を片手に、友人達と熱く語り合った「夢」も
それはそれで楽しかったと今でも本当に思っています。
「夢」を見るのも学生の特権なのですね・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その4
2009.03.10

「どうして野村證券に入ったのですか?」
という質問にそろそろお答えしなければなりませんね。

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自分の夢探しとは別に、高校時代の頃から実は証券会社に入ろう
思っていました。
驚かれるかもしれませんが、間違いなくそんな学生は少なかったはずです。

子供の頃、私の父はサラリーマンながら、よく株をやっていました。
その手伝いで「チャート」を書かされたものです。
そんな経験から株に何となく興味があったのでしょう。

漠然とそんな幼児体験から、商学部で迷わず「証券論」のゼミに入りました。
当時の商学部は成績のよい人たちの間では、銀行と商社が人気でした。
今も多分そうだとは思いますが・・・。
人気のあるゼミからは、つまり成績のよい学生の間では
そういう業種の一流企業に入るのが「」だったらしいです。
当時の一番人気は「日本興業銀行」でした。
早稲田から興銀に入ると、「就職体験記を全学部のトップページで
書けたくらい」自慢できたものです。
今では無くなってしまった銀行ですが・・・。

ただ証券会社は間違いなく当時もあまり人気のない業種でした。
ですので、証券会社を回りだすと同期の友人の中では誰よりも早く
内定をもらいました。
ゼミの先生が三洋証券の顧問をやっていました。
当然入社するように言われましたが、これも無くなってしまった証券会社です・・。
入社していたらどうなっていたか・・・。

でも、丁度大学4年生のときに初めて、日経ダウが1万円を突破します。
「これからは間接金融(銀行)より直接金融(証券)の時代だ。」
「資本主義経済を支えるのは証券会社だ!自分の選択には間違いが無い!」
うぬぼれにも近い確信を持ってもいました。

ただ証券会社の実態は、やはり お気楽学生さんには
分かりえなかったのでしょう。
入ってから正直「後悔」することになります・・・。
私にも子供が二人いますが、子供に間違っても手伝いでチャートを
付けさすような「バカなこと」は絶対にやらせませんでした・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その3
2009.03.09

高田馬場を下りて線路沿いに「さかえ通り」という路地があります。
今も昔も同じように飲み屋が並んでいます。
この青春の地で私は「酒の味」を覚えましたし、
'亡国の遊戯'「麻雀」も覚えました。

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通りを抜けると、今もある焼き鳥の名店「鳥やす」があります。
その対面に昔「DUO」という喫茶店がありました。
そこがバスケットサークルのたまり場で毎日のように、それこそ
大学の授業には出なくても毎日通っていました。
夜はパブになり、学生の身でありながら、一番安かった「ホワイト」で
友人達と天下国家を熱く語っていました・・・。

カネがなくなると、下落合駅まで歩いていき、駅前にあった「学生援護会」で
アルバイトを探しました。
高額の日当を稼ぐバイトをして、そのカネが入るとまたホワイトを飲む・・・。
どこにでもいそうな「お気楽学生さん」だったのですね・・・。

あの頃から税理士を目指せば良かったのでしょうけど、
税理士や会計士がどういう職業であるかすら知りませんでした。
きっと今の学生も多分そういう人が多いのでしょうね。

よく税理士会で税理士の「地位向上を目指し・・・」なんていう
スローガン(お題目?)を聞きますが、大学回りでもして、
就職活動している学生に対して「税理士とは・・」という運動をやった方が
よほどマシではないかと思います・・・。

この頃自分が何を目指そうとしていたか分かりません。
高校時代にあれほど熱中した囲碁もまた何故か覚めていました。
早稲田の囲碁部は強豪であったものの、数ヶ月で退部してしまいました。
真面目にやっていれば学生名人くらいになっていたかもしれません!?

でも「青春の門」の伊吹信介と同様、自分の夢が何かを模索していた
のだと思っています。
アルバイトを本当にいろいろやりました。
家庭教師はむろんのこと、肉体労働でも販売員でも何でも・・
伊吹信介にあこがれていた私は「血を売るバイト」まで・・・(内緒)

あの頃、いろいろな職業を裏方から見た経験も、
今税理士としてあらゆる職種の方にアドバイスできる「肥やし」になったかな
とさえ今では思っています・・・。



夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その2
2009.03.06

脱サラのお話なので、会社勤めしてからのことを書こうと思いましたが
その前のこともお話しておかなければいけませんね。
「夢」のことを書こうとしたら、やはり時計の針をもっともっと前に
戻さなければいけません。
社会人とは「夢」を忘れてしまう悲しい人種ですから・・・。

昭和59年、私は早稲田大学商学部に入学しました。
以前も書きましたが、高校時代に囲碁とバスケットボールに夢中になり、
残念ながら、現役合格することはできませんでした。
一年間真面目に予備校に通った結果、何とか早稲田にもぐりこむことが
できた訳です。

ただ、商学部に入って税理士を目指そうと「間違っても」
思ったことはありません。
子供の頃、漠然と「弁護士」になりたいと思ったことがありました。
でも昔子供の頃夢見た「弁護士」という夢は、
いざ大学に入る時に何となく覚めていたようでした。
一応、中央大学と慶応大学の法学部にも合格していましたが
法学部には何故か進みませんでした。
「早稲田が好きだったから・・・」
今思えばそれだけの理由だったと思います。

「自分は何をしたくて大学に入ったのだろう?」
そう自問しながら大学に通いました。
その頃よく読んだ本は、五木寛之の「青春の門」でした。

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何度も何度も読み返したと思います。まさに私の青春の本です。
主人公伊吹信介は「何を自分は目指すのか」それを確かめるために
生まれ故郷の筑豊から早稲田に入学します・・・。
自分と重なるところがあり、ものすごく共感した覚えがあります。
まだ学生でもあり、伊吹信介と同様、まだまだ「夢見る夢子さん」だったのでしょう。

その頃早稲田の商学部には「会計学会」という
会計士や税理士を目指す集団があったらしい!?です。
ただそういう集団には一切関わらず、相変わらずバスケットボールに
熱中していました。
バスケットボールの練習が終わると、授業には出ることなく高田馬場に出て
さかえ通り」のたまり場に、たむろしていました。
今も昔も変わらない「さかえ通り」も私の青春の地です・・・。


夢をかなえるゼイ! 脱サラ編 その1
2009.03.05

うるさい上司の顔を見たくないと思った朝。
わずらわしい同僚の陰口に閉口する昼。
うっとうしい取引先の接待に疲れた夜。

ふと誰でも
「こんな会社辞めてやる!もっといい職場を見つけよう・・」
と転職を考えるもの。

求人サイトをみて条件の厳しさやその給料の安さに愕然とする・・・。
「まあ仕方がないか・・・。」
「しばらく我慢するか・・・。」
この繰り返しに悩む自分がいる・・・。

きっとこういう方々が、今や世の中では非常に多いのでしょう。
百年に一度の大不況。いつ自分がリストラのリストに乗るか・・。
リストにならないまでも、減給やボーナスカットは日常茶飯事。

「こんなことなら何か資格を取っておけばよかった・・。」
そう思ってる方が多くても無理はないでしょう。
本当に資格の講座がにぎわっているらしいです。
当事務所の歩いてすぐのところに、先日「公認会計士と税理士」の
立派な専門学校もできました。
そのうち公認会計士講座でも受講しようかなと・・!?

これから私の脱サラして税理士を目指したことを書いていきますが、
それほど用意周到に勉強していた訳ではありません。
しかも学生時代から勉強した訳でもまったくありません。
勉強を始めたのは30歳を過ぎてからでした。
大学は一応商学部を出ていますが、お恥ずかしい話ですが
簿記論の先生は試験の時にしか!?見たことありません。

大学時代から税理士になろうと必死に勉強していたら、きっと今頃は
中野で「一番大きな」税理士事務所になっていたでしょう!?
(あんまりこういうことを不真面目に書くと怒られるかな・・・)

ただ学生時代から簿記会計の勉強漬けではなく、
いろいろ回り道してきたことも、また今更ながら、
それはそれでよかったかなとも思っています。
おかげで、まだまだ中野で数番目の「小さな税理士事務所」でしか
ありませんが・・・。

夢をかなえよう!と必死に、のた打ち回ってきた「私の履歴書」です・・・。



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